寄稿/投稿
白い水着顛末記
 柴田瓔子 (36HR)

   父には白い水着には特別な思い入れがあったようだ。父は写真年鑑で木村伊兵衛に次ぐ古い写真家であった。1939年に米国の美術評論家モーリ・ナジが 監修した"Vision In Motion"と云う現代美術のバイブルとも云われた美術書に,ピカソ,マチス,ブラック、カンジンスキー,建築家ではル・コルビジェ,バーハウス等と一緒に,父の写真がシュールレアリズムの旗手として掲載された。その写真は飛び板の一番高い所から,10m真下のプールのレーンを区切る黒い線の間に,平泳ぎで手を伸ばした黒い水着の男性を写したものであった。水に揺れる黒いレーンの動きが面白い、これが白い水着であったらどういう効果が出るであろうかと編集者は記している。父の頭には白い水着が刷り込まれてしまった。戦争と云う中断があり,戦後静岡県の国体代表に飛び板飛び込みを教えており,浜松には本格的飛び板飛び込みの設備ができた。しかし娘に白い水着を着せて10m真上から写真を撮ると云う計画は私の病気で頓挫した。私は身体が弱いままで、静高に入っても,修学旅行で熱を出し,京都の旅館で寝ていたし,高校野球の甲子園決勝でも,微熱が続き,応援は許されなかった。 黒い水着にはナチスのハーゲンクロイツの旗がついている。当時ナチス,ヒットラーのアウシュビッツ強制収容所でのユダヤ人大量虐殺を書いた「夜と黒い霧」と云う書物が評判を呼び、少女らしい正義感で、ナチスの旗の胸に縫い付けた布切れの縫い目の糸を解き取り去ろうとしたが、メリヤスの布はボロボロになっていて、かえって胸に大きな穴が開いてしまって着られない。それまで泳いだ事がなかったので,白い水着が濡れたらどうなるか,世間的な知恵が回らなかった。
    いわゆる芸術家馬鹿の父の白い水着への執念は衰える事が無かった。それから8年後、東京にいる私に妹から電話があった。静高の水泳教室が2日後にある,父が白い水着を買ってきた,どうしたら良いだろうと云う相談であった。新幹線に飛び乗り,静岡に帰った。その頃には私も世間並みの知恵が付いていて、白い下着を買い,要所要所に切り取った布を縫い付けた。姉妹で母のいない心細さを嘆き,芸術家の父親を持った運命をのろった。父の弟子の大竹省二は婦人専科の写真家であったので女性の写真を多く撮ったが,父は全く女性の写真は撮らなかった。ただ飛び板の10m真下にうつむきに浮かんでいる白い水着の女性の写真を撮りたかっただけであり,猥褻な意図はなかった。中学校の時,窓の外で妹が呼んでいるので、上半身を乗り出して話していたら、いきなり父のビンタがきた、まるで玉の井の女のようでハシタナイという。玉の井がどういう所か、最近になって,自転車で下町をうろうろしていたら、かって玉ノ井という吉原の様な場所があったと云う標識を発見した。当時13歳の子供に分る訳が無い、とにかく行儀に厳しい人であった。
   以前先輩の弁護士の野方さんに,私は同級の男子学生にいじられるどうしたら良いかと相談した事があった。野方さんは静高の他の学年では、女性同士が結束して男性のカラカイ、悪戯等に対処しているとおっしゃっていたが,78期は反対に女性の方から同性をからかう様旗ふりをしている。白い水着は私と妹に取ってトラウマになっていた。50年前の事であれ,ネットに書いたのは昨年の事で、お医者さんには守秘義務というものが無いのか?と思ってしまう。 患者のオジイさんがピンクのイチゴの模様のパンツを着ていたなんてネットで書かれたらたまったものでない。妹が「お姉さん,とにかくその女医さんがかかりつけ医でない事だけでも,有り難いと思わなくちゃ!」と云った。     
                    
柴田

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