ジャーナリストのパソコンノートブック |
(110) 英国の悪法名誉毀損法 |
私が英国の経済紙に記事を書き始めた1974年は前年の中東戦争の勃発でアラブ石油産出機構(OAPEC)が原油生産制限をしたために、日本に狂乱物価とマイナス成長がもたらされた時期であった。日本企業の破産が相次ぎ、英国の商社の東京支社に赴任したばかりの友人はトラックを用意して破産のニュースを耳にしたら、すぐさま、倉庫等に駆けつけ、納入品や原材料を差し押さえて来るのが彼の最初の仕事であった。従って日本企業の業績悪化等のニュースは特別な関心を持って読まれていた。この日本企業に融資した英国の銀行員は眠れない夜を迎える事になるし、材料を納入した商社はトラックを用意すべきかどうか迷う。こんな折、決算記事を書くにあたって、日本のメディアの論調の影響を受けて、この企業が破産寸前だというニュアンスで書くべきかどうか迷う事が度々あった。すると英国人のボスが、きっと今夜遅く、FT専属の弁護士から電話があると思う、原稿に自宅の電話番号、所在地の連絡番号を書いておけといった。真夜中になり、弁護士から今日書いた記事について質問があるという。先ずこの企業について、会社名のスペルについて、チェックが入る。例えばトヨタ自動車なら、T for Tokyo、Y for Yankees等である、人名のチェックも電報読みである。 弁護士は連結決算の数字を欲しがったが、当時日本の企業は単体決算を採用していたので、単体の親会社の赤字を非連結の子会社に隠す恐れがあるという。 弁護士は「この決算記事の書き方は、この会社が倒産するリスクが高いという云う予見をもって書いているようだ。どうしてこのように考えるに至ったのか?」と聞いて来る。私は「この過去3週間、日本経済新聞やその他の高級紙、また日本の公共放送(NHK)が数十回にわたって、この会社が倒産しそうだと伝えている」と答えた。すると弁護士は、日本の大新聞が何百回報道しようとも、それは日本の名誉毀損法で許される。しかし英国の法律では名誉毀損(Libel law)に相当する。そして1時間後に弁護士から電話が入り、検討した結果、私の書き方では、フィナンシャル・タイムスがこの企業に名誉毀損(libel suit)で訴えられる可能性が高い。結局、説明文無しの数字だけの味気ない記事になった. 弁護士に何時間も拘束されて、こんなにつまらない記事になってと憤懣やる方なかった。私のボスの英国人支局長も、田中角栄の1976年ロッキード献金報道で、国を揺るがす大スキャンダルであったにもかかわらず、毎晩本社の弁護士と何時間も検討した結果、名誉毀損法で高額賠償金支払いを恐れ、安全第一の短い記事になってしまったと落ち込んでいた。時には、田中角栄に名誉毀損訴訟に持ち込まれるリスクが高いと、報道の自粛をしたこともあった。この様に英国のlibel law(名誉毀損法)は自由な報道や言論の自由を妨げるものになっていると身を持って知った。 日本からの報道についてフィナンシャル・タイムスはビビリ過ぎであった。当時国際間の名誉毀損法に強い弁護士は皆無のであった。私が覚えている限リ、日本企業や日本の団体からlibel suitに持ち込まれた英国の新聞はなかった。Libel suitに一番近かったのはガーディアン紙のロバート・ワイマント特派員であった。彼はケンブリッジ大学卒、文部省のお金で京都大学卒業のインテリであるが、ガーディアン紙が左派系の労働者階級の読者を対象としていたので、徹底的に日本企業、昭和天皇を批判、侮蔑の対象とした。例えば第二次世界大戦中日本軍の731部隊が中国人捕虜を人体実験に使ったのは、生物学者である昭和天皇の人体実験の命令であったなどという虚偽の報道をした。昭和天皇の研究は海洋生物であり、分野が全く違う。日本の皇室には反論も、訴訟も許されていないのでlibel suiに持ち込めなかったが、もし訴えたえでもしたら、ガーディアン紙が大々的に天皇の戦争責任等に焦点が当たる様な論争を展開して、延々と中傷記事を書かれることになる。 外国人記者達も、ワイマントの記事にハラハラしていた。彼を揶揄する新聞のクリッピングを図書室の壁にみつけた。それは昭和天皇が新種のカニを発見して、嬉しそうに掲げている新聞写真で、天皇の無邪気な笑いが素晴らしい。その写真の見出しは「天皇は新種のカニを発見して、“ロバート・ワイマント”と命名した」というものであった。日本の外務省はワイマントの報道には随分我慢を強いられたであろうが、韓国政府は違う、彼を訴える代わりに、もし韓国領土に一歩でも足を踏み入れたら、彼を捕まえ、投獄すると通告したと云う。ワイマントは休暇中スマトラ沖大津波(2004年)で亡くなった。 Libel(名誉毀損と誹謗中傷)の法律は古く、損害賠償の民事訴訟は13世紀まで遡ると云う。Libel Suit で有名なのは1989年のジェフリー・アーチャ卿の民事裁判である。人気作家(「百万ドルを取り返せ」、「ケインとアベル」等の著書)であり国会議員であるアーチャーは売春婦と一夜を過ごしたところをタブロイド紙に大スクープされた。アーチャー氏は否定し、タブロイド紙にLibel訴訟を起こした。この裁判で勝訴して50万ポンド(8,500万円)の賠償金を手に入れた。1999年、アーチャー氏と一緒にいたと偽証を頼まれたと友人が 告白し、今度はアーチャー氏が起訴された。陪審裁判で有罪が決まり、4年間刑務所で服役した(英国の民事訴訟で陪審裁判をするは名誉毀損訴訟だけである) この英国の名誉毀損法は奇妙でアンフェアーな法律である。名誉毀損を訴える側(原告)に真実を証明する負担(立証負担)はなく、被告側に責任が転嫁されるので、原告が有利になり、勝訴になる可能性が高い。アメリカではフォーラムショッピングと云って複数の国に国際裁判管轄がある場合、原告が自分に有利な判決がなされる見込みのある国の裁判所に訴訟を提訴するやり方が好まれる。この越境裁判を名誉毀損ツーリズムと呼ぶ。名誉毀損の成立を広く認める英国(イングランドとウエールズ)が選択される事が多いという。米国で政治家や会社の不正を暴く報道にしても、英国の名誉毀損国の裁判所に持ちこまれ、言論の自由に対する障害となる恐れが出てきた。名誉毀損裁判では、原告には費用がかからないが、告訴されたジャーナリストやメディア側には大きな金銭的負担を課す。名誉毀損裁判の高額化を実感したのが、2008年科学ジャーナリストのサイモン・シンがガーディアン紙のウエブサイトでカイロプラクティックの治療の効果を疑問視した記事で,BCA(英国カイロプラクティック協会)は名誉毀損でシン氏を告訴した事件だ。2年後控訴院が記事は名誉毀損に当らず、正当な論評であると判断したため。2010年4月BCAは告訴を取り下げた、勝利までの2年間シン氏は裁判費用20万ポンド(約2600万円)を負担する羽目になった。 今思い返してみると、私が日本企業の破綻やスキャンダルについて記事を書く度に、ロンドンの弁護士が私の記事を法律的観点からチェックした理由が良く分った。名誉毀損で告訴されれば、新聞社が毎回高額な裁判費を負担するし、賠償金をしはらう羽目になり、経営を揺るがせる事にもなるからだ。小規模の出版社は名誉毀損訴訟を恐れて、報道を自粛する所もでてきたという。あるとき、英国のビジネス誌の編集長をやっていた知人が電話してきて、Libel 訴訟があまりにも多くて、馬鹿らしくなったので、編集長を辞めると云ってきた。どうしてと聞くと、この雑誌の広告頁にベタな写真を使った。デスクの上に万年筆とパイプ、そして半折になったフィナンシャル・タイムスで、ビジネスマンの必需品である。当時のフィナンシャル・タイムスはキャチフレーズに“Think Pink!”, 新聞はサーモンピンクであるので、「ピンク色の新聞の事を考えて!とか、物事をピンク色に考えて!」と云うフレーズが中央に書かれていた。ところがこの雑誌はLibel suit で訴えられた。広告に使った半折になったフィナンシャル・タイムスの一面のトップに報道された記事に書かれた企業が名誉毀損で訴えてきたと云う。その記事は拡大鏡を使ってやっと読めるかどうかの大きさであった。この編集長は、英国には弁護士が有り余っている。広告に使われたフィナンシャル・タイムスの記事に載った企業に、この広告を使った雑誌を名誉毀損で訴える様そそのかしているとひどく落ち込んでいた。 名誉毀損法がいかに報道の自由から逸脱したものとなった事を思い知ったのはサイモン・シンの事件であった。サイモン・シン氏はインドのパンジャーブからの移民の両親の元に、サマーセット生まれ、ケンブリッジ大学で、素粒子物理学で博士号を所得、BBCに就職、多くの科学ドキュメンタリー番組を制作して数々の賞をとっている、著書「フェルマーの最終定理」で高い評価を受け、ベストセラーとなる。「ビッグバン宇宙論」などの著書は翻訳され新潮社からでている。サイモン・シンの名誉毀損裁判での勝利は科学者達に歓声をもって迎えた。彼等は「法律は科学的紛争での場所でない」と語り、ジャーナリストはこの裁判で明らかになった問題は英国の名誉毀損法が批判者を黙らせる為にのみ機能する法律になっていると語っている。この法律はジャーナリスト等の著述業者に対しては非常に敵対的であり、批判者を黙らせたい有力者や有力企業に対して、友好的である。この事は2003年米国人の作家レイチェル・エーレンフェルト事件物語っている。彼女は米国でテロの資金調達に関する本を出版した。本の中でサウジアラビアの実業家ハリド・ビンマフーズ(ブッシュ大統領時代のサウジアラビア大使)がテロリストグループへの資金提供者だと非難した。ネット上で調べると、この男は骨の髄まで腐った男だと副大統領と記していた。ブッシュ大統領の石油会社の大株主でもある。9.11事件直後ブッシュ大統領が最初にやった事は、ハリド。ビンマフーズ一族を米国から出国させる事であった。この本は英国では書店で販売されていなかったが23冊がネットを通じて英国で販売された。そこで、英国での出版物として扱われ、サウジアラビアの大富豪マフフーズはエーレンフェルトを英国で名誉毀損で告訴し、勝訴している。 米国のサイクリスト、ランス・アームストロングは 癌を克服してツールドフランスで7回も優勝して、ヒーローになる筈だったが、2012年ドーピング行為でUSDAから7回優勝の名誉を剥奪された。実は2004年、アームストロングは薬物ドーピング疑惑を消す為に法律事務所採用のシリングを雇い、英国の名誉毀損法を利用し、英国サンデータイムスを100万ポンド(1億5千万円)で告訴した。金額は非公開であった為、サンデータイムスは法定外で30万ポンドで和解した。アームストロングがそれまでの薬物ドーピングを全て認めたため、2013年8月サンデータイムスは2006年にアームストロング側に払った名誉毀損賠償金30万ポンドの払戻と裁判費用や金利等72万ポンドを上乗せし、合計100万ポンドを–アームストロング側に請求し、合意に至り名誉毀損法を悪用したドーピング疑惑打ち消し事件は解決した。 このところ、英国のLibel 法は 英国に拠点を持つ他の国のメディアが被告として、他の国の原告が名誉毀損告訴する奇妙な裁判が目立つ様になってきた。 他国で発行されている新聞でも、インターネッとでアクセス出来るので、ロンドンにオフィイスを持つメディアが相手なら、英国人でなくても訴えられる。その為、ロンドンには訴訟を起こしたい名誉毀損ツーリストが世界中から集まって来る。損害賠償が高額化してくるリスクを恐れて、米国の大手新聞社は英国から撤退を考えていると云う。 米国政府は英国内での名誉毀損判決が米国に適用されない様に2010 SPEECH法を成立させた。原告が米国に従わない場合は米国の裁判所における、外国名誉毀損判決が執行不能になると いうものだ。英国政府も法律を改正して、損害賠償にキャッピングを儲け、上限10,000ポンド位にする。勝訴の場合、弁護士報酬を大きく減少させるなど損害賠償の高額化傾向を止める策や越境名誉毀損訴訟を無くす為に、出版物の少なくとも10%が英国内で発行されない限り、訴追を受け付けないなどの歯止め策を儲ける。新しい名誉毀損法は2014年から2015年にかけて適用されるという。 終 柴田 |