ジャーナリストのパソコンノートブック
(108) アイデンティティ

  作家司馬遼太郎は1868年から1872年にかけての近代日本の成り立ちについて「坂の上の雲」と表現した。封建社会から目覚めた日本が、手を延ばせばやがて欧米的近代国家になる様子を「坂の上にたなびく雲」に例えた。特に日清戦争から日露戦争の十年間を「世界史上の奇跡」と書き記している。
この奇跡を陰で支えたお雇い外国人の存在があった事が、知人、レスリー・ヘルム氏(元ビジネスウイーク、ロスアンジェルス東京特派員)の曾祖父の話で明らかになった。明治維新の翌年の1869年、レスリーの曾祖父、ジュリアス・ヘルムはドイツから軍事アドバイザーとして、横浜に着任した。
 前年1868年、幕府は諸外国と通商条約を結び、神奈川、函館、長崎、新潟、兵庫の5港の開港を決めた。条約文では神奈川とは東海道寄りにあり、混乱を避ける為に、幕府は半農半漁の寒村「横浜」を開港場と決め、村民を他所に追い出し、突貫工事の結果、波止場、役宅、外国人居留地、運河、道路、橋等を完成した。幕府は一般の日本人との自由な交流を防ぐ為に居留地内に外国人を孤立化させ、要所要所に関所を設けた。その名残が今でも「関内」という地名で残っている。米国総領事タウンゼント・ハリスは通商条約上の神奈川とは横浜とは決めていないと猛反対したが、大型船舶が停泊出来る横浜港の方が広くて使いやすいと商売を始める国内商人、外国商人も増え、1875年までに外国公館が横浜居留地に移転を完了した。
    明治政府のお雇い軍事アドバイザー、ジュリアス・ヘルムは日本兵をドイツ風に鍛え上げた。イスやベッドの生活、軍服やブーツの着用、肉食、敬礼から行進の仕方までドイツ風に訓練した。しかし, 新兵は朝礼に2時間近く遅れてくる。聞いてみたら、当時の男性にとって、チョンマゲを結うのは大事な身だしなみである事が分ったが、まげを切る様に命じたという。レスリー氏の元にある, ジュリアスと軍服を着た日本兵の写真があるが、西南戦争当時の写真だと云う。1人だけ軍服を着用せず短髪の粋な姿の日本人が写っている。一目で勝海舟である事が分る。勝海舟は幕府が強化に力を入れた海軍の長崎海軍伝習所の一期生、明治維新後は初代海軍卿となって、海軍整備に励んだと云う。
日本に来てすぐジュリアスは日本女性小宮ヒロと結婚した。ヴィクトリア王朝時代、日本人女性と結婚するのは非常に珍しかったという。余談だが幕末1828年の鎖国時代に長崎出島で帰国直前のオランダ商館員シーボルトが日本地図を持って出国しようとした事で、地図を贈った関係者が処分されると云う「シーボルト事件」が起きた。シーボルトには「おたきさん」と云う、日本人妻がいた。シーボルトは、彼女の名前を紫陽花の学名にHydrangea Otakusaと名付ける程であった。日本人妻と女の赤ん坊を本国に連れていく積りであったが、オランダの親戚から日本人妻を持つと知的に劣った子供が生まれると猛反対され、妻と娘を日本に残していった。シーボルトの娘は長じて楠本滝と云う女医となった。さらに余談になるが、松本零士のSFアニメ『銀河鉄道999』に出てくる「謎の美女レナーテ」というキャラクターは、楠本滝の孫娘をモデルにしたもので、松本零士が余りの美しさに惚れて、アニメのキャラクターのモデルになってもらったと云う。    
   ジュリアスは日本女性と結婚する事によって、こんなに難しいアイデンティティ問題を息子達、孫、ひ孫までに残すとは想像もしていなかった。日本と云う国で、明治維新、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と激動の時代に生きてきた為にアイデンティティを持って生きる事の難しさを突きつけたのかも知れない。

   明治政府に雇われたお抱え外国人は任務が終わると日本から引揚げていったが、ジュリアスは日本に残り、ドイツから3兄弟と姉を呼び寄せ、ヘルム・ブラザース商会のビジネスを本格化させていった。日本から引揚げなかったのは多分に日本人女性を妻にした事にもよると思われるとレスリーは推測する。ジュリアスは妻小宮ヒロとの間に息子4人、娘3人をもうけた。娘3人は結婚しなかったと云う。当時、外国人と日本人との間に生まれた混血の花婿候補に家柄が釣り合う者がいなかったと云うのがジュリアスの決断だ。
  ヘルム商会は鉄鋼、機械、大型貨物馬車であったという。重い荷物を積んで航行する艀(はしけ)の輸入や、1872年品川横浜の鉄道開始による鉄道車両の輸送には大型の馬車が必要であり、それには、日本の在来種の馬は小さ過ぎ、馬力がたらないので、米国の大型馬を艀や、馬車と一緒に輸入したと云う。確かに、乗馬に興じるアメリカ婦人という当時の写真が残っているが、米国女性が乗っている馬はまるでロバの様に小さかったから、日本の在来種の馬であろう。ジュリアスはあらゆるビジネスを手がけた。当時居留地の外国人は牛乳への強い渇望をいだいていた。ジュリアスは横浜当局に「ミルクは居留地の外国人の健康に不可欠なもの」説得し、居留地の外にある根岸に作った牧場の許可を願い出て、乳製品の生産が許されたという。外国人を見てバター臭いと云う表現はこの頃生まれたのではないかとレスリーは語る。 
  当時陸上交通での近代的交通手段は馬車であった。開港当初から居留地では外国人が個人的に所有する馬車が使われていたが、一般の人々が利用出来る乗り合い馬車は、横浜道に沿って、馬車道が造成されるのを待った。明治元年居留地のランガン商会が4輪の馬車を使って東京—横浜を馬車で往復するようになった。一日に100人程度が東京と横浜を馬車で往復したと云う。
明治政府の近代化政策により、横浜は国際的貿易都市を目指し、都市基盤の整備に余念がなかった。明治20年には近代的水道の敷設が行われ、国費による、築港工事が開始され、1894年(日清戦争まで)には横浜大桟橋の第一期工事が完成し日本から海外への定期航路が開設された。ヘルム商会も定期航路を開設し, 海外に支店を設ける。日清戦争、日露戦争の軍需品の調達と云う特需を受け、商売は大繁盛した。ジュリアスは日本企業に限られた艀の敷設工事を請け負う為に、長男カールは日本人の母を持ち、日本で育ったという日本人のアイデンティティを強調しする為に、日本国籍をとって、注文を勝取った。しかし、ヨーロッパを二分した第一次世界大戦(1914年)では、オーストリア、ドイツ、イタリア同盟に対し、英国、フランス、ロシアが戦ったが。英国は同盟を結んでいる日本に中国青島に根拠地を置くドイツの巡洋艦や武装商船を撃破する事を要請してきた。日本は英国が要請する以上の本格参戦に踏み切って、青島と共に南洋諸島のドイツ領を占領した。日英同盟締結を見て、長男の呼び方を英国風のチャールスにかえた。四男のウイリーは義勇軍としてドイツ軍の青島基地の任務についていて。彼は日本人の母を持ち、日本で育ったにも関わらず、日本と戦い、青島で日本軍の捕虜になった。当初は仏教の寺が仮の捕虜収容所であったが、九州久留米にある捕虜収容所に収監された。当時の日本軍は捕虜扱いを定めたジュネーブ国際条約を遵守しており、クラッシック音楽の演奏、印刷等が許されていて、捕虜に対する待遇は悪くなかったという。私は以前四国の造船所を見学した折、第一次世界大戦のドイツ人捕虜から造船技術を学んだと云う話を聞いた、又ドイツ人捕虜から、印刷技術や、ソーセージやハムの製造技術の伝承があったとか、ドイツ人捕虜は彼等が持っている技術のおかげで大事にされていたようであった。 当時横浜の新聞がからかい半分に「混血ヘルム、合いの子ヘルムが戦争捕虜になった」と云う記事を掲載、まるで犬の雑種の様な無神経な表現を使った。日本人の母を持ち、日本で育った若者にこんな扱いをするなんて、アイデンティティ・クライシスがヘルム家を襲った。
横浜の外国人居留地は1923年の関東大震災で跡形も無く消え去った。幕末の突貫工事で埋め立てた関内地区はレンガ作りの建物が殆ど倒壊、山手の洋館も全滅して多くの死傷者を出し、港もその機能を失った。横浜市では死者が23,000人にも上った。殆どの外国人が、帰国したが、ジュリアス・ヘルムは横浜を離れた外国人のビジネス利権を買取った。横浜の観光案内書に「横浜居留地時代の建築物で唯一現存するのはモリソン商会の遺構である。1883年に建てられた当初は2階建ての商館は平屋建ての倉庫として改造されて、所有者がモリソン商会から、ヘルムブラザース商会に移り、最近になって、商館の遺構物である事が確認されたと紹介されている。関東大震災後、ジュリアスはモリソン商会の跡地に外国人専用のアパートメントを建設し始めた。1923年当時にセントラル・エアーコンディショニング、コーヒーメーカーを設置した超豪華なアパートである。当時としては珍しいトースターを米国から輸入し、中国から、カーペットをとりよせ、食器は全てヘルム・ハウスと云うロゴを入れた特注品であったと云う。このアパートは1938年に予定された東京オリンピックの客を迎える予定であったが、日本でのオリンピックは日中戦争の長期化でキャンセルされた。1940年頃から、米国は日本に対し経済制裁を発動しはじめた。7月には石油とくず鉄を輸出許可制に、さらに9月には鉄鋼とくず鉄の輸出を禁止した。1941年初め、米国大使館の勧告を受けて、祖父は親戚一同を連れてサンフランシスコに移った。レスリーの祖父だけは直ぐ横浜に舞い戻り、仕事の残務処理に当ったが、真珠湾攻撃の前日に米国に戻った。1941年12月時点で300人程の米英系外国人が在住していたが、12月8日真珠湾攻撃の日、特高によって外国人男性が一斉に「敵国人」として連行されたと云う。抑留されたのは93人で、その内32名は翌年英国人と米国人が交換船で帰国している。 サンフランシスコに移ったヘルム家一同は、ここで新たなアイデンティティ問題に直面する。日系人は強制収容所に送られる運命だ ヘルム家が一番恐れていた事が起きた。「ヘルムはジャップだ!日本人強制収容所に送られるべきだという投書が新聞に出た。しかし、戦争が終わるまで強制収容所送りは起こらなかった」第二次大戦後レスリーの父親はN-bomb(ナパーム弾)で焼き尽くされた占領下の日本に戻ってきた。そして、米国の新しい敵国となるソ連の動向を探る為に、シベリアの抑留から戻ってきた捕虜を九州でインタビューした。シベリアの凍土で殆ど死にかけた状態の捕虜を19歳のヤンキーが(レスリーの父親が)インタビューするのである」。
 レスリーの父親は(ジュリアスから数えて3代目)が、横浜でビジネスを再開するが、親戚が4大陸(米国、カナダ、香港、ニュージーランド)とバラバラになり、兄弟間のもめごとも起きた。1973年、香港の会社に買収された。おそらく戦後始めての敵対的買収かもしれないという。
   ヘルム家は横浜の山手の丘の家、外人墓地の正面のビクトリア朝の洋館に1900年頃から住んでいる。ジュリアスは避暑地の積りでこの家を建てたという。レスリー自身は現在シアトルに住んでいるが、従兄が山手の家を守っている。彼によると、元町の寿司屋はいまだに、「ヘルム山」に配達と、丘の上の住人を呼んでいるという。レスリーは外人墓地の真向かいに住んでいながら、一度も、埋葬されている家族(曾祖母のヒロを含めて)墓参りをした事がなかった。外人墓地は中華街にラーメンを食べにいくときの近道でしかなかった。外人墓地の家族の墓をお参りする事は、見たくない、触れたくない過去に引き戻されるからだ。これはヘルム家の者が自分の中にある日本人らしさを打ち消そうとしているからだ。叔父の娘の中には日本人らしい顔をした女性がいたが、オバアさんが日本人, 叔父も日本人と結婚しているので、子供の1人に日本人の特徴が強く出るのは当然の事だ。しかし、叔父はその娘を認めたくなく、結婚式には出席しなかったという。家で、息子が日本語を話すと叔父にきつく叱られたという。 カナダに渡った 叔父は自分が半分日本人である事をひた隠しにして、カナダのミリタリーアカデミー(防衛大学校)の校長を務め、その後トロント製造業協会長を務めた。日本人の血が流れていると分ればこれまで出世出来なかったかもしれないが、彼の息子達は葬式で彼が半分日本人である事を知って驚く。せめて生きている内に自分達に教えてくれていたらと嘆く。この叔父は自分の母親は英国人で、英国で埋葬されているとつたえていた。
欧米の若い世代では人種に対するこだわりがない、米国西海岸等では日本人の血が入っている方がトレンディ(かっこ良い)と考えられているという。
   その後レスリー・ヘルム氏はなるべく日本との接点を深めようと、曾祖母の小宮ヒロの親戚を捜した。長い間彼女は平塚の市長の娘だと聞いたが、平塚の図書館で調べてみると、ジュリアスが来日した当初、平塚は小さな農村で、市は存在しなかった。住民台帳で組長として小宮の名前が残されている。知り合いの新聞記者に話した所、読売新聞にデカデカと「私のおばあさんは誰でしょう?」という記事が載り、数日後親戚から連絡があった。神道の神主の家柄で、こちらが日本人とのコネクションをひた隠しにするのと同じ位彼女の親戚もドイツとの関わりを隠していたという。レスリーの奥さんも日本育ちで、彼女の父親は学習院大学、東大でドイツ語を教えているシンシンガー教授で、多くの学生が彼のドイツ語辞書のお世話になっている。60年前大阪の高校に赴任してきた時、学生達は私語を止めず、教室を走り回って手がつけられなかった、そこでドイツのフォークソングを大声で、次ぎから次ぎへと唱ったら、学生達は耳を傾けてくれた。それ以来フォークソング愛好会ができて、未だに集まっているという。レスリーも毎回参加しているという。
   1993、ドイツ人というアイデンティテぃにこだわる父親が亡くなった時、父親が自分の日本人の部分を拒否していて、彼の人生でくつろぐ事が無かった事に気がついた。息子レスリーは孤児院で2歳のまり子を養子に迎え、その数ヶ月後に男の子を養子に迎える事が出来た。日本では白人の父親が日本人の子供を連れて歩くとジロジロと見られるが、シアトルでは自然に向い入れられるので、シアトルに家庭を持つ事にした。ティ–ンになった息子と口喧嘩、議論をする事はあっても、自分と息子は遺伝子で繋がっている親子より、ずっと親密で理解しあえ、自分の父親が生涯手に入れる事が出来なかった親子関係を享受していると自認している。

   終,柴田

    

戻る