ジャーナリストのパソコンノートブック |
(103)色彩が抜け落ちた1970年代の記憶 |
先日私が大学を卒業して働き始めた米国のABC放送の東京事務所の先輩の女性達と同窓会の様な会合を持った。不思議なことに私の当時の記憶から,色彩がすっかり抜け落ちている、全て記憶が当時の朝日新聞本社(現在の有楽町マリオン)の濃いネズミ色の建物の色にとけ込んでいた。ABC放送の事務所は有楽町の朝日新聞の9階であり。隣に日劇ミュージックホールの屋上が見渡せた。ダンサー達はショーが終る度に屋上に出て豊満な身体を太陽にさらした。クジャクの様な飾りをを脱いだり、乳首の飾りを外していたが,それがどんな色をしていたか全く思い出せない。白い肉体だけが目に浮かぶ。色彩が抜け落ちたのは多分に作家三島由紀夫の割腹自殺のショックかもしれない。 朝日新聞が最初にバラまいた号外が地面に転がっている三島由紀夫と介錯人森田必勝人の生首の写真をそのまま掲載したものであった。余りにも残酷であると云うことで,この号外は直ぐ回収されたが,私の脳裏に焼き付いた画像は消されず一生つきまとっている。1970年ABC TV は三島由紀夫の取材交渉をしていた。すでにNYタイムス・マガジンは三島と楯の会の特集を掲載していた。三島は5万円の寄付をしてくれたら取材を受け付けると返答してきた。私のボスはユダヤ系の米国人でケチで有名であった。寄付をしても,楯の会の軍服(今のジャニーズ系の歌手が着ている様な)の金ボタン一個にしかならないと,決断を延ばしていた。 1970年 11 月25日正午頃,事務所にたむろしていたTVカメラマン達が 三島由紀夫の楯の会が市ヶ谷の陸上自衛隊東京方面総幹部を占拠して,クーデターが起きた、直ぐ取材に駆けつけなければと大騒ぎとなった。三島は「楯の会」と云うプライベートな軍隊を持っていた。隊員数も少なく、戦争ごっこのお遊びだと思われていた。カメラマンが撮影したムービーには三島がベランダに出て演説している勇ましい姿が映して出されていた。彼は報道陣をよく利用したが、ヘリコプターの取材までは計算していなかったようで、7分間による演説も報道ヘリコプターの爆音にかき消されていた。楯の会の若い隊員森田必勝はバルコニーから垂れ幕を降ろし、「檄」をバラまいた,しかし,「檄文」を読んで三島に駆け寄る隊員は誰一人おらず、嘲笑し,揶揄をいれていた。結局三島のスピーチは7分の茶番劇として終わった。しかし、3時頃になって、朝日新聞の号外が配られている。手に入れた号外の写真のショックは大きかった。最初の号外は地面に置かれた胴体から切り離された二人の生首の写真である。首には血は付いてなかった。 映画等では斬首されたサムライは目を大きくかっぴらいていたが、号外の写真では目は閉じられていた。腹切りした段階で,意識を失ったのであろう。もう一人の森田介錯人の首の表情はうかがうことができなかった。後の報道によると,三島の介錯を頼まれたのは若い森田必勝で2太刀目を振り下ろしたが、首は離れなかったので,大きな体格の古河浩靖隊員が3太刀目を振り下ろし、断ち切ったと云う。森田隊員は三島の腹から短刀を抜き取り,自分も割腹した。古河隊員が一刀で,森田の首を切り落としたと云う。 三島は 2. 26事件を題材にした映画「憂国」を製作するにあたり,青島中尉の割腹自殺をモデルにしたと云われる。検死した軍医から割腹した青島中尉が腹から臓器を出したまま,5?6時間のたうち回ったという見苦しい死に様を耳にして,割腹自殺後の介錯を頼んだという。 号外写真を見た私は,寒気がして、わなわなする震えがと止まらなかった。まだ勤務時間内にもかかわらず、職場放棄、銀座から新橋方面に向って夢遊病者の様に歩き始めた。夕時になり、飲み屋に立っているサラリーマンの群れの後ろに立ち,どんな会話をしているか盗み聞きした。人々は至って冷静であった。「国軍」として目覚め、三島の決起に参加するなど唱える人は誰一人いなかった。 外国人特派員も三島の腹切り自殺にはクールであったが,時の佐藤栄作首相は三島の行動は「馬鹿げている」と一言で切り捨てた。しかし,多くの特派員は日本には欧米人が云うエニグマ(enigma 理解出来ない精神的何か)が存在するという感を強めたという。そして彼等は記事を書かずに,明け方まで飲んで,翌朝ひどい二日酔いに襲われた。 三島由紀夫氏はボディビルディングで鍛えた身体を誇示する様な写真が多いが,私自身ミュージカルの初日に招待された時、三島由起夫の隣に座ったことがあり,以外に小柄な男性であることに驚いた。身長は163センチ位である。 三島(本名、平岡公戚、1925年生まれ)は農林官僚の長男として誕生。祖母夏子は華族の出身で、非常に支配力の強い女性で,公戚が生まれてからすぐ、両親から取り上げ自室で育てたと云う,そのため、小柄で,病弱な少年に育ち,容姿にコンプレックスを抱いていたと云う。三島の少年時代のあだ名はアオジロである。平岡公威は1947年東大法学部卒業,大蔵省事務官となったが半年で辞め,数々の小説を発表。1955年にボディビルディングを始め,1956年ボクシングを始め,たゆまぬ鍛錬で後に知られる程偉容を備えた体格となった。これらの話は後に知り合いになった平岡千之氏,三島より5歳年下の弟から聞いた話だ。千之も祖母夏子から将来「占い師」になる様育てられたと云うが、外交官になり、外務省モロッコ大使,ポルトガル大使を務めた。平岡千之氏とは面白い出会いをした。ある外国金融機関が開いたホテルオークラでの大宴会場で、キャビアを入れた大きなクリスタルグラスの器があった。いくらバブル時代の始まりとはいえ,大粒の灰色のキャビアは珍しかった,私はそのテーブルから動くまいと白ワイン片手に陣取った。フランスのパリ・マッチ誌の特派員アルフレッド・スムラー氏も僕は今夜ここから動かないと宣言した。そこに平岡千之氏が加わり、どこから探してきたのかシャンペンのボトルを開け、3人だけでキャビアを楽しんだ。平岡千之氏は兄の公威をうかがわせるような容姿,雰囲気は見つけ出せなかったが,偉ぶらず,ひょうひょうとしていた。彼は食道楽で,知り合いの店で美味しいホヤが入ったから食いに行こうとか度々お誘いがあった。しかし,美食家はその報いをうける、外務省退職後,1993年乞われて迎賓館の館長になったが、成人病で倒れ65歳で亡くなった。 私は号外の凄惨な写真を見なければ良かったと思った。その当時の記憶から色と云うものが消えてしまったのである。まるで新聞の活版印刷の様にしか思い出せない。三島の割腹自殺の前、1968? 1969は学生運動が一番激しかった時期である。1968年の東大安田講堂闘争をクライマックスに,学生運動は街頭闘争に移っていった。当時有楽町の朝日新聞の窓から東京駅まで見渡せた。ある日,何千人と云う学生達が新幹線の高架電線に藁のムシロを引っかけ、線路の石をバケツに拾って東京駅から有楽町に向って行進してくる珍しい光景を目にした。あれよ、あれよと云う間に学生達は有楽町で線路から降り,銀座通りに広がった。待ち構えていた機動隊に石を投げつける。機動隊は学生達に催涙弾を撃ち始めた. A tear gas (催涙弾は目にしみ,涙を出させるが,目そのものには害を与えないという)は目に猛烈な痛みを起こした、学生は皆レモンのスライスが催涙弾ガスに効くと持ち歩いていて,顔に塗っていた。事務所の部屋の中にいても,ガスは充満してくる。凄いと思ったのはABC Newsのルー・チオフィーと云う特派員だ。学生と機動隊の真ん中に立ち,25キロもあるムービーカメラを回しているが、彼は190センチと云う長身であるにかかわらず、学生達の投石のターゲットにはならなかった。その後、学生達のバケツの石が底をつき,学生は銀座の歩道のレンガなどの敷石をはがし機動隊に投石し始めた。 翌朝銀座に行ってみると歩道の敷石は全て剥がされていた。これは学生が剥がしたのではなく、機動隊が一晩で,銀座中の歩道の石やレンガを剥がしたという。元の煉瓦の歩道に戻るには随分年月がたってからだ。朝日新聞社と同様に古色蒼然としていたのが,日活ビル(現在ペニンシュラホテル)と日比谷の三信ビルだ。特に日活ビルの地下には香港の九龍地区にあるビルのあるようなうんさ臭い店が沢山あった。海外旅行、特に,東南アジア等の地域には旅行するには予防注射を打たなければ渡航出来なかった。ポリオ,日本脳炎,コレラ、ジフテリアなど数種類の予防注射が必要で,医者の証明書が必要であった。渡航前にこんなに沢山の予防注射を打ったら,熱をだして、行けなくなるのではと心配したが、外国の特派員達は日活ビルの地下に簡単に予防注射をしてくれる良いクリニックがあると紹介してくれた。それはクリニックとは呼べない様な小さな店で、汚いカーテンの陰で,60歳位の白衣を着た女医さんらしき女性が、注射の針を刺さないで,皮膚をそっとなぜてくれる。これでジフテリアは終り,次ぎはコレラなど針でなぜるだけで,証明書をかいてくれる。 それから10年位して,この女医さんが検挙されたと云う記事を読んだ。彼女は医者の免許を持たず,元は肉屋であったと云う。 それから若い特派員男性が自分たちだけが贔屓にしているSky Barberと云う床屋があった,彼等はこの店の情報を教えず,自分たちだけでSky Barber Clubというファンクラブを作っていた。 二人の姉妹が経営しているという。どうしてこの店が特別なのか教えてと何度聞いても,最後まで教えてくれなかった。ある特派員の秘書の女性によると,床屋姉妹は胸がふくよかであることだけは分った。ビルが解体され,特派員もいなくなり,Sky Barber Clubは解散になった。 1970年当時 私のABC放送のボスはトレンチコートを着て,中折れ帽子を斜めに被り,ハンフリーボガード風を気取っていた。米国人でも衣服を大事に着ることが分ったのは,彼はトレンチコートばかりでなく,ワイシャツの襟首の綻びまでも何回も修繕に出すのである。パレスホテルの地下のYシャツ屋さんや,日活ホテルのテーラーにはもうこれ以上エリのほころびを直すことが出来ないと云われるまで何回も修繕に出していた。 ある時,日比谷の三信ビル(今は無い)にビストロが出来たので,インタビューの約束をしていた繊維会社の部長と昼食を取った。食事中彼はポロポロと涙を流し,戦争中中学生であった彼はこのビルで風船爆弾を作り、風船爆弾を放球したと苦しい経験を話し始めた。風船爆弾は和紙にこんにゃく糊を塗り作る気球に爆弾を搭載して、ジェット気流を利用して米国本土を攻撃するもので,9900発放球して,米国で361発確認されている。山火事等を起こしたが余り効果がなかったという。風船を制作するには高い天井から吊るさなければならず,当時利用出来る建物は,日劇(現在の有楽町マリオン)や,東宝ビル,三信ビルであったと云う。この当時は意外な所に戦時下や,終戦直後の痕跡があったが、朝日新聞も,日劇も,日活ホテルも,三信ビルも全て姿を消した。そういえば,当時朝日新聞の前や有楽町の交差点にいた靴磨きも姿を消した。 今考えると私の米国人ボスはいわゆる不良外人であった。戦後の駐留軍の権威を嵩に,好き放題をしていたと思える。朝日新聞本社の事務所のスペースを戦後何十年と月十万円で借り、値上げを云うと大声で汚い英語で捲し上げる。税務署が調査に入れば,ここは特派員のレップ(連絡事務所)で,事業をしていないので納税義務はないと怒鳴る。7人の女性スタッフを安く雇い、米国のABC放送ばかりでなく,プレイボーイ誌の広告取り次ぎや、5つ位の米国の会社の東京事務所を兼業していた。だから,私達女性は電話にでるとき、ABCだとか、Playboy Magazineだとか社名を名乗ってはいけない。ただハイハイと云って電話に出ればよいのである。女子社員の給料は7人分をABCに請求,Playboyにも請求して何倍になって入ってくる。 ABCのNY本社から,担当者が尋ねてくるときは、朝日新聞の玄関受付から,ボスからこれから客を案内すると電話が来る。9階までエレベーターで上がってくるまでに慌てて,Playboy関係の書類や,雑誌を隠す。とにかく当時の米国の企業からすれば,日本の賃金等はウソみたいに安かったのである。 私はこの事務所で2年は働いたが、随分多くのことを学んで,臨機応変,柔軟な考えを持つことが出来た。 1970年当時殆ど雇用の機会の無い日本女性に雇用の機会を与えてくれ、キャリアを積む機会を与えてくれた,素晴らしい学校であったと感謝している。こんな面白い経験は日本の会社ではできない。 終 柴田 |