ジャーナリストのパソコンノートブック |
(98)ワイルドな話 |
毎年ノーベル賞の時期になると複雑な気持ちになる。今年もips 細胞の発見で京都大学の山中伸哉教授がノーベル生理学・医学賞をカール16世グスタフ国王から授与された。メダルを首に掛けられる事を最高の栄誉としている。しかし,私には以前国王が日本訪問の前に東京の大使館スタッフに羽田空港の近くの「うたまろ」という名前の「トルコ風呂」に是非行きたいと催促している手紙を見せられて国王の手書きの「Utamaro」, 「torukoburo 」と云う英語の綴りが目に焼き付き、ギャップの余りの隔たりに未だに納得がいかないでいる。 在京の各国大使館は年末に緊急の場合に備えてデューティ・オフィサー(当番)を残し、スタッフは国に戻る。米国使館の政治部等書記官の友人が今年は運悪くデュティーオフィサーに当ってしまった,各大使館の運の悪いデューティ・オフィサーを集めて,コタツでやけ酒を飲むパーティーを開くので遊びに来ないかと招待された。この時期家族持ちは東京には残っていない。イタリア,スウエーデン,ドイツ等の40歳代の独身男ばかりである。すると隣に座っていたスウエーデン大使館の一等書記官が皆にお知恵拝借したいと懐から手紙を取り出した。手紙はグスタフ国王から送られたものでスウエーデン語で書かれてあり、私には分らないが、一等書記官は英語に訳しながら読んでくれた。固有名詞は読みやすい様に丸みを帯びた英語で書かれており「うたまろ」,「トルコ風呂」と云う名前が目に飛び込んできた。訳された手紙には,グスタ国王は今度東京を訪問するが,この時昔訪れたことのある「うたまろ」という「トルコ風呂」に行きたいのでアレンジしてくれと書いてある。「うたまろ」は羽田空港の近くだとも説明まで付いていた。国王は「うたまろ」の場所を覚えていても,「トルコ風呂」が「ソープランド」に呼称が変わった事をご存じないらしい。1964年の東京オリンピックの時で,当時皇太子だったグスタフ殿下はヨット競技に参加なさった時,トルコ風呂の味を覚えてしまったらしい。グスタフ国王はスポーツ競技で何度も私的に訪日しており、公私合わせ15回も日本を訪問している。スウェーデン大使館員が皆の知恵を借りたいというのは,グスタフ国王は奥様のシルビア王妃を同伴して訪日する,どうしたら奥さんに内緒で国王だけを連れ出せるかと云う事だった。国王だから日本側からSPが護衛する。泊まっている帝国ホテルからSPをまいて「うたまろ」にたどり着けるであろうか相談され,皆てんでバラバラなアドバイスをした。外交官ナンバーの車で,「うたまろ」に横付け出来ないし,日本側のSPもついてくるであろう。国王と同じ位の背丈の米国大使館員に帽子を深く被って貰って米大使館ナンバーの車でホテルまで来てもらい,国王は同じ様な帽子を被って米国大使館員になりすまし,米国大使館ナンバーの車でホテルを出る。米国大使館に行き、そこから,タクシーで「うたまろ」に行く,もちろんスウエーデン大使館員も同伴するなど,スパイ小説みたいなシナリオをアドバイスして,一晩中盛り上がった。とにかく国王が夜遊びするのは大変な事なのである。その時おかしいと思ったのは国賓であればベルサイユ宮殿を模した赤坂迎賓館に宿泊出来るのに,どうして帝国ホテルに宿泊するのか? 外交官達によれば,帝国ホテルは銀座と云う繁華街に隣接している、国王自身おしのびで銀座を散歩することができるし,ロビーを往来する人々を観察して市民の暮らしぶりが分るからであると云っていた。 帝国ホテルは王様の宿泊指定らしい。以前フィナンシャル・タイムスの重役が来日した時,千代田区三番町にある霞友会館(1975設立)という外務省の外郭団体が所有し,ホテルオークラが運営をするホテルに宿泊させた。 外務省関係の客ばかりで安全であり、サービスには定評のあるオークラだから申し分無いと思ったのだが,外報部長はこのホテルはつまらない,まるで隔離病棟にいるみたいだ,一般の日本人が泊まらないので,日本人がどのような生活をしているか分らないと他のホテルに移った。 その後訪日した社長は帝国ホテルに泊まり,夜有楽町のガード下の焼き鳥屋にお忍びで行ったと自分の大冒険を皆に自慢していた。霞友会館は客に敬遠されたのか分らないが,1998年閉館となった。 カルル16世グスタフ国王は 1946年生まれ,父親のグスタフ・アドルフ王が飛行機事故で亡くなった為、1950年祖父が国王に即位,グスタフは幼くして王太孫(王位継承権2位)となった。1973年国王に即位した。ミュンヘン・オリンピック(1972年)でコンパニオンとして働いていたドイツ平民のシルビア・ゾマラートと恋に落ち,反対を押し切って1973年結婚した。シルビアの父親がナチス党員であった事が国民や王室内でも反対の声があがった。 スウェーデンはヨーロッパの王室の中で唯一長子相続制度を取っている。1980年の法律で、男であれ,女であれ最初に生まれたものが王位を継承する。スウエーデンの凄い所は1979年グスタフ国王にカール・フィリップと云う男の子が生まれているにもかかわらず,翌年の1980年に「長子相続制度 ー 男であれ,女であれ,最初に生まれた子供が王位継承者となる」を制定した。 従って,最初に生まれビクトリア王女が法定推定相続人(王太子)となっている。ビクトリア王女はスポーツジムのパーソナル・トレーナーのダニエルと結婚して,今年2月エステル王女を出産した。スウェ?デン王室ビクトリアに続いてエステルと二代にわたり女性が王位継承者となる。新王女エステルの誕生と成長の記録はFacebookには紹介され、スウェーデン王室はエステル人気に湧いている。それに加え,ヨーロッパ王室で一番の美貌を持つマデレーン王女(30歳)が英国人のクリストファー・オニール氏(米国で金融業)と婚約し,来年6月に結婚とおめでたい話題が続く。今年ノーベル賞授賞式の晩餐会で山中教授がエスコートしたのがマデレーン王女である。スウェーデン王室はこれら明るい話題が国民の王室離れを食い止めてくれる事を望んでいる。情報研究調査団体の調査によると,王室が不必要という意見が1996年の13%から2010 年に28%に増えている。若いプリンセス達の女性週刊誌的な話題やグスタフ国王セックス・スキャンダルが影響していると云う。2011年5月グスタフ国王は風俗店に出入りし,裸の女性達と一緒の写真を撮られ,写真のもみ消しで友人がマフィアと裏交渉した事実が国内で報道され大騒ぎになった。国王は5月30日問題のクラブや,国家元首として不適切な他のいかなる場所にも行っていないと否定する声明を発表した。写真をもみ消そうとマフィアと交渉したとされる友人レットフトレーム氏の行動にも関与していないと全面否定したが、多くの国民はその発言を殆ど信じなかった。その頃暴露本「「カルル16世グスタフ,いやいやながらの君主」がベストセラーとなっていた。この本によると国王は有名女性歌手と一年あまり愛人関係にあり,世界各都市で風俗店を訪れていた等セックスがらみのスキャンダルが暴露され,国民の顰蹙を買っていた。私が若い頃,日本の男性が一番訪れたい国はスウェーデンであった。ポルノ解禁だとか,フリーセックスの国という都市伝説が信じられていた。そんな曖昧な情報を信じた日本人男性はスウエーデンを訪れ、青い目,金髪の背の高い女性にボコボコに殴られて帰ってくる。その頃スウェーデンの女性文部大臣が日本を訪れ、日本の男性はスウェーデンの女性を全て売春婦だと思ってやってくると苦情を云いにきた。スウェーデンの女性記者達と一緒に取材旅行する機会があったが,旅先で会った日本の男性達は「スウェーデンですかフフフフ」と含み笑いをされたり、日本の男性に「ハウマッチ!(いくら?)」と云われたと憤慨していた。欧米の男性達はスウエーデンの女性はユーモアがなく、頑固で怖いと云う。男女同権と云う観念が発達しているから,結婚したら家事や育児を負担しなくてはならない。そんなお固い国であるから,男性が仕事の帰りに居酒屋に寄るとか許されなく,まして風俗店に行くなんてもってのほかだ。20年位前、外国人記者クラブで札幌の雪祭りの取材に出掛けた。雪祭りの担当者が男性記者達をすすき野探訪に誘い,ストリップ劇場に入る事になった。私はどういう所か見当が付くので,ホテルに戻ったが、スウエーデン女性記者達は女権運動家である,どうして男性だけ接待されるのか,私達も同等に扱われたいと劇場の最前列の席に陣取ったという。ストリッパーはさぞかしやりづらかったのでないかと聞くと、男性特派員はストリッパーの方が一枚上手で、最前列で頑張っているスウェーデン女性記者達の前にきて,「Girls! 貴女達自分のものは見た事がないでしょ!よく見て!」と両脚を開いたという。ユーモアのある応対に劇場が喝采に湧いたと云う。スウェーデンの女権運動家は自分たちはショーに上手く利用されたと云っていた。 私は外国特派員クラブに登録しており,会員の写真は壁に飾ってある。外国から訪れる知人は私がまだジャーナリストとして働いていると知って連絡してくる。以前オーストラリア大使をしていた知人が東京の国際会議に出席する為に訪日したと連絡してきた。懐かしい六本木で飲みたいという。彼は1975年当時特派員達が六本木で飲み歩く時、一緒についてきて飲み歩いていた。豪外務省は日本担当の外交官を育てる為に,一年間日本語学校に送り,日本語だけを勉強させた。再会した六本木の角のビルの最上階のバーで「交差点にあるアマンドも交番も1975年の当時と変わらない」と懐かしそうに見渡しながら、当時のワイルドな体験を語ってくれた。1975年当時,彼は六本木のバーで泥酔していた。アプローチしてきた娼婦を連れて、タクシーで世田谷の自宅に向かった。真夜中だが六本木から青山通り交通渋滞がひどかった。交通渋滞がひどかったお蔭で、酔いが醒めてしまった。ふと隣にいる拾ったばかりの女性を見ると,彼女はひどく不細工であり、彼女を相手にする気分が失せてしまった。タクシーのドアを開け,「帰ってくれ!」と3万円を渡し、彼女を押し出した。彼女は5万円払ってくれると云った、足りないとドアの外で怒鳴っている。彼はドアをバタッと閉め(当時は自動ドアでなかった)自宅に戻った。翌日大使館から,大使の呼び出しがかかり,大使の執務室に行くと,昨晩の女性が鼻に大袈裟なガーゼを当ててわめいている。 バタッと閉めたタクシーのドアで鼻の骨が折れてしまったという。鼻の治療代と一週間客が取れない損害と合わせて20万円払えと云っていた。彼はそんなにひどくドアを閉めた覚えはないと弁解したが、大使はとにかく彼女に20万払えと云った。彼女にお控え願ってから、大使は彼を叱ったりしなかったが,たった一言「いいか,あの程度の女に5万円も払うな!勉強しろ!」と云ったという。なんと素晴らしい大使だろう。私は女性だから,女性の相場というものを知らないが,1975年で5万円というのは現在の相場より高いのではないか? 当時の日本女性は貞操感が強く、娼婦になる人が少なく,絶対的価値が高かったのかしら?現代はキャバクラ嬢等売春人口が広がり、相場が下がってしまったのではないか?と云うが私の推測である。長く経済記事を書いてきたが,この分野の調査研究はした事がない, 韓国では不況になると増える売春婦と云う相関インデックスがあると聞いたことがある。(終) 柴田 、 、 |
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