ジャーナリストのパソコンノートブック |
(89)失われた20年 |
米国でも,欧州諸国で市場やメディアで繰り返して使われるのが,経済の低迷が続けば"Japanization" (日本化)が起きてしまうと云う表現だ。1980年代日本の経済バブルが崩壊して,1990年代の経済の低迷が続き,「失われた10年」と云う表現が使われ,2000初頭まで続いた,しかし2008年の米国のリーマンショックの影響で「失われた20年」と書き替えられた。最近ではどうして「失われた20年」と云うのか説明さえも省かれている。 1986年度-1990年度のバブル景気時代日本は豊かになる全てを手にした。貨幣経済が膨張した為に生まれたバブルは実体経済を遥かに上回っていた。88年から89年位かけて,実体経済の総合指標である国民総生産(名目50兆円から超える過剰マネーが 行き場を探して渦巻いていた。特に日本の土地総額は1800兆円を超え,アメリカを4つも買える以上な水準まで膨らんだ。日本の株式時価総額は600兆円とニューヨーク証券取引所をあっと云う間に4割も上回り,一時は倍近く値上がりした。上場企業は1987年度に11兆円,88年年度に17兆円,89年度年度に26兆円をエクイティ・ファイナンスで集めた。1989年11月には東芝が総額420億円の市場最大のワラント債券を発行した。当時の土地本位と云う信用創造システムが地価高騰で担保力を増し,株高を支援した。私は英国の証券会社が作ったQレシオ(一株あたり、実質純資産倍率),いわゆる企業の保有する土地の含み益を保有する土地と株式と共に時価評価して、純資産に組み入れた株式尺度として使われた。日本企業の湾岸地区での倉庫や工場跡地を真っ赤に塗ったQレシオ地図を見た事がある。 エコノミスト達によると,大企業は86年度から90年度前半にかけて,ざっと35兆円程度余力の預金を積み上げたと見られる。調達コスト(大口定期預金)は決して安くはなかったが人々が土地や株の投資に熱狂していて,問題にならなかった。しかし、にわか成金になった日本人は金の使い方が下手であった。 私は当時、芝浦の新築マンショを借りて住んでいた。最寄り駅は田町であり、仕事場のある東京駅からの山手線品川行き1:10の最終電車が利用出来る。又週末は品川から逗子までの横須賀線が利用出来,最も便利なところであった。表参道から芝浦に移ってきた直後は倉庫と運河ばかりで,夜一人歩きは怖く,田町駅近くの交番のお巡りさんに,花を届けたり,毎晩愛想良く「今晩は!」と声をかけた。 しかし一年も立たないうちに,芝浦がバブル景気のホットスポットとなった、バブル景気に踊った人達を近くから観察出来た。週末葉山の海の家から,ウィンドサーフィンで潮だらけになって,田町駅に戻ってくると,プラットフォームで階上の香水の臭いをかぐ事ができた。田町駅のトイレの中はこれから湾岸のディスコ(ジュリアナやゴールドなど)に出掛ける若い女性で一杯だ。お化粧をたっぷり塗って,いわゆるボディコンと云うタイトなワンピースにワンレンという髪型で、大きな扇子を持っている。当時は黒く濃く引いた眉毛が流行り、これに真っ赤な口紅と、まるでヤマンバの様な化粧であった.踵の高いハイヒールを履き、まるで幼女が母親のハイヒールを借りて履いた様にヨタヨタ歩いていた。若い男性はジョルジュ・アルマーニのピラピラのスーツを着て,外車のスポーツカーで女性の送迎をしている。きっと彼等は自分で稼いだ金ではなく,実家が郊外に持っていた土地の一部,農家の息子が土地を売った金で外車を買ってもらったのだ。若い女性はディスコのお立ち台に立って、大きな扇子をふって腰をくねらして踊っている。良く歴史の本で,1920年代のローリング・トェンティ-ズ(踊る1920年代)と云う現象で,欧米でも,日本でも,ジルバ,チャールストンとかフックスロッドと云う早いリズムの曲で若い女性が踊り狂っている写真が掲載されている。きっと将来,日本の昭和経済バブルを説明するとき、扇子をふって踊っている女性の写真が使われるであろうと思った。 とにかくこれらディスコ現象は近隣の住人には良い迷惑であった。ドンドンという腹の下から突き上げてくる様な音がうるさくて,寝られないと云うも文句が出て,マンション公害連絡会が作られ,騒音について対策を設け,ディスコに突きつけた。この時代の女性は自分たちの価値を土地や,株の値段より高くつり上げた。 若い女性はスポーツカーで送り迎えしてくれる男性を「アッシ?君」とよび、食事をご馳走してくれる男性を「メッシ?君」,何でも好きな物を買ってくれる彼は「ミツグ君」、彼等を総称して「キープ君」と蔑んでいた。彼女達はクリスマス・イブにディズニーランド近くのシェラトンや東京ベイヒルトンホテルで食事込み5万円のデートに応じた。そして,プレゼントにはティファニ?のオープンハートリングが必需品である。早く予約しないと売り切れてしまう。泣きそうになった若い男性達が店に泣きついて,予約は受け付けたが入荷が遅れたと云う証明書を書いてもらったと云う。これら男性は女性を送る為に乗車拒否するタクシーに1万円札を数枚ひらひらさせて止めていた。とにかく金が余っていたのだ,若い女子社員は1円も使わずに一週間優雅な生活が送れた。昼食も上司が払ってくれ,夕食もメッシー君が払ってくれる。会社の上司は帰りのタクシー券をくれる。会社は全てが交際費などの経費で落とせた。外資系証券会社に勤めている友人によると、4-5人でドン・ペリニオンのシャンペンを一晩11本開けたと云う。それでも経費の目標額に達せず,翌日の昼食にさらにシャンペンを数本開けたと云う。ある日NYの編集者が訪日したおり,帝国ホテルのラウンジで昼食をとった。隣のテーブルで3-4人の日本の証券マンがシャンペン昼食をとっていた。あっという間に5本を開けていて、NYの編集者はおどろいていた。 この時代4流,5流の大学の卒業生でも就職には困らなかった。就職は完全に売り手市場であった。私は外資系証券会社の事情しか知らないが,日本の中小の証券会社の課長クラスが外資系に1億円の給料で引き抜かれたと云う話を耳にした。全額給料で貰えば税金で半分位持っていかれるので、会社側が家賃,自家用車、運転手、女中さんの給料を経費で落とし,差額を給料として貰うと云う物であった。彼等高額リクルートされた証券マンはバブルの崩壊以後どうなったのであろうか? 彼等が抱えた顧客のアカウント運用の成績は,業界の平均運用成績と比較され,悪ければ解雇される。それより先に外国の証券会社はバブル崩壊した日本市場から退却し,彼等は解雇された。私自身1990年代後半のITミニバブル当時,スイスの証券会社からIT関係のアナリストにならないかと声をかけられた事がある。正直言って,ITに関しては全く素人であったが,その当時日本で発行している,英文のIT月刊誌に記事を寄稿していたのでスイスの証券会社の関心を引いたのであろう。外国証券会社の友人に相談したところ、ITに関しても,私が分析して顧客に勧める株が年間にどれだけ上昇したかの成績成績を、業界の平均と比較することで私の実力が測られる,業界の平均成績が出てくるまで1年かかる。しかも当時ITは日本で全く新しい分野であるので,業界の平均値が揃っていなかった。私が自分の顧客のアカウントの成績と比較するまでに少なくとも2-3年は高給を食む事ができると友人は云う。私もその間に勉強して専門家になれると云う。当時,外国人と競い合うのに疲れてしまって,証券アナリストになるのを諦めてしまった。ここに勤めなくて良かった。この証券界者はリーマンショック時に大損を出し,東京から撤退した。 バブル時代、不動産取引に関しては,大会社も,個人もまるで熱にうなされる様に不動産投資に邁進した。 私は持論を持っていて,日本と云う土地は国民が住むべき土地で、一部の不動産投機家と金持ちをだけが利する物ではない。一般国民が住めない様な高い不動産は,いつか値崩れが起きると云う説であった。雑誌などでも不動産投資での成功例が紹介されていた。700万円で買ったマンションが4000万円で売れたなどと云う記事で溢れていた。港区,芝浦と不動産投機の最前線に住んでいたので,私と云う借り手が生活しているのに,マンションが勝手に取引されていた。これは不動産会社が投機目的の買い手に,月25万円払えるテナントが付いている,優良物件だ、投資目的にはぴったりだと勧めていたからだ。突然若い夫婦が訪ねてきて,おたくの大家になるかもしれないので内部を見せいて欲しいと訪ねてきたり,大手広告代理店の若者が不動産屋の友人と検分に来たりした。バブル後半になると人々の判断力がおかしくなる。個人は自分達は不動産の値段が上がりすぎて,一生家を持つ事が出来なくなるのではないかと云う不安に刈られていた。ある時米国商工会議所(ACCJ)の米国女性編集員が電話してきて、今の狂乱地価状態だと,日本に住む外国人は家を一生持てなくなる,今が買い時だと云う記事をACCJ Journal に書いてくれと云う依頼を受けた。 私は欧米の不動産投資に使う尺度で、"不動産の回転率"を使って調べてみると東京都心の主な物件ではその半年殆ど変化がなかった。つまり,不動産バブルを続ける為の過剰資金の流入がなかった事になる。 最高値で不動産をババを?んだ金融機関,大手不動産会社などの我慢較べが行われていた、そこで、私は不動産価格はまもなく崩落する。投資は暫く待った方が良いと,ACCJが意図するのと正反対の記事を書いて、編集者に不評で遭ったが,1カ月後に不動産市場の暴落が起きた。実際には大蔵省の総量規制を端緒とする信用収縮が経済活動の急速な収縮を招いた。1989年12月に38,915円のピークを付けた日経平均株価は1990年には23848円まで急落した。それまで証券会社は顧客企業が発行した転換社債をいかに個人に売りつけるか全精力を傾けてきた。英国の金融紙に,日本市場はこれ以上企業の発行するCB(転換社債)を吸収する過剰流動性が無い,三菱電気のCB発行は難しいであろうとインタビュー記事を書いている最中にも、幹事証券会社は必死になって三菱のCB投資を勧めてくる。株を買った人は即大損を被るのは承知の上である.仲間内で今日は上手く個人を騙して売りつけた、何人殺したと仲間内で自慢していた.いつも株を買いませんかと電話してくる若い女性が,連絡して来ない,聞いてみたら,会社を辞めて田舎の幼稚園の先生になったと云う。さぞかし多くの投資家を殺したのであろう。株式の大暴落で、証券界者の同じ職場に留まるのは寝覚めが悪すぎるからだ。 私は住んでいた芝浦のマンションを買った大手広告会社の若者は、「ダカーボ」と云う雑誌のマニュアル通り大もうけする積りでいた。不動産バブルの後期に更なる投資を促す為に「ダカーボ」という若者向けの雑誌がマンション購入による財テクをそそのかしていた。その雑誌にはクギ一本打ってあれば,一万円請求出来る,画鋲痕一つで5千円、タタミが茶色に色変わりしていれば、マンションは出て行く時新品の状態で戻すと云う契約があるので,タタミ取り替え代50万円とか書いてあった。私は入居した直後にタタミの上にカーペットを敷いたので,タタミの色は私の付けた色ではない。その後ダイニングテーブルの脚で,カーペットの毛並みが変わっただのあらゆる難癖をつけてきた。二言目には「ダカーボ」と云う雑誌で,いくら請求出来ると書いてあると云った。私はそれなら,ダカーボに請求したらいかがですかと取り合わなかった。この若者に全てがマニュアル通りに行かないと彼の財テク計画の裏をかくことにした。彼は会社から資金を借り,私が住み続ける事を前提として、私が払う家賃で財テクを考えていた,私が引っ越した時,不動産バブルは弾け、誰も私が払っていた家賃で借りる人はいなくなった。彼は良いテナントを失い、財テク計画は挫折した. 当時新居を借りるには敷金,礼金,不動産屋への礼金とかやたら金がかかる、幸い,中央区の佃のリバーシティと云う公団の50平米の部屋が30階に見付かった。ここの良いところは各部屋の外に大きな倉庫があり,部屋の中にも4カ所収納庫、大きなクロセットもある。入居時にも敷金しか取られず,クギの痕とか,面倒くさい事はいわれない。2メーター80の高さの大きなガラス窓からは 毎晩ディズニーランドの花火,成田空港の飛行機の離発着が望め,精神衛生上非常によい場所だ。 何回も「ダカーボ」さんありがとうと繰り返した。芝浦にいたら,この若い大家に毎年契約更新と不法にも高い家賃を請求されていたかもしれないからだ。地震の恐れが無かったら,現在持っているマンションをすぐ売ってでも,リバーシティに戻りたいと思っている。 今になってバブル景気は妙になつかし,毎日がお祭りの様な騒ぎであった。今の若い人達は生まれたときから,バブルの経験をしていない。若い芸人が1ヶ月1万円でやりくりする番組があるが,これが20年前だったら,一万円札を数枚ヒラヒラさあせてタクシーを止めていた男達である,若い人達が気の毒になってしまう。 自分の甥達にバブル時代の話をしても,彼等にバブルの生活感がないので,なんの反応も示してくれない。バブルの崩壊,その後のデフレーションは若い人達から積極的に生きる意欲を奪い去った様だ。彼等は自家用車は必要ないという。海外旅行しようとか,海外留学しようと云う意欲も失った。若者は男同士で 1,000円のスーパー銭湯に行く事が出来れば幸せだと,まるでお婆さんの様な事をいう。 あれ程高飛車であった若い女性もかっての三高(背が高い、学歴が高い,収入が高い)と云う結婚条件から,今や「三平」に変わった。平均的な学歴,平均的な背丈,平均的な安定した収入,特に公務員は最も望ましい職業であると云う。不況に影響されず,解雇される恐れは無い。給料は上がる一方、年金社会保障も充実している。バブル時代の調査では公務員は一番人気のない職種であったのに。 昭和のバブル景気は大幅な経常黒字(貿易黒字)と円高デフレを恐れる余り,景気刺激策が必要だと,金利を下げ、マネーサプライを毎月2桁も増やした為だ。過剰マネーは株や不動産などの資産インフレを起した。それでは現在のデフレから脱却するには,当時と同じ過剰マネー状態を作れば良いと云う事になる。米国では昨年6月にQE2というマネーサプライを大幅に増やす景気刺激策を取った。米国の量的緩和は半端でない,米政府は国債を6000億ドル(49.5兆円)市場から買い上げ,過剰マネーで市場をじゃぶじゃぶにした。 しかし米国のQE2は万能薬ではなかった.経済活動自体が冷えきっていて,資金需要が思った程生まれなかったし,雇用にも改善がみられなかった。結果は超ドル安(超円高)である。米国のQE3は日本も含めて世界中から渇望されたが,この2月26日予定されたQE3は行われなかった。オバマ大統領は来年の大統領選挙を控え,選挙公約の財政健全化で,これ以上財政赤字を増やす事ができないのである。最近になって米国の景気が自律回復の気配を見せている. 日本の場合もマネーサプライを毎月20兆円増やしているが,経済活動全体が小さい為に余剰資金が市場に淀んでいる状態であり,景気浮揚には程遠い状態である。 どうしたら昭和バブルを取り戻せるか?と仲間のジャーナリスト達と話し合ったことがあるが,とにかく日本にはお祭りに参加してくれる人がいない。人口の減少が一因である。1980年代の日本人は今日の中国人の様に無邪気に自国の成長を信じており、我も我もと,株や,不動産に投資していた。今日知恵をつけてしまった日本人はお祭りに参加しそうも無い。1990年代の米国のITバブルの様な機動力のあるイノベーションは終を迎えている。当分の間日本がデフレーションから脱却出来る見通しはなさそうだ。何とかしないと失われた20年が,失われた30年になってしまう。 終 柴田瓔子 |
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