ジャーナリストのパソコンノートブック |
(82)「ダイアナの宿命」 |
この間行われました英国のWilliam王子と Kate Middletonさんの結婚式のTV放映を見て、もしダイアナ妃が生きていて,この式を見ていたらどうした思いをめぐらしました。 未来の英国王になるWilliam 王子の母として,カミラ夫人がCharles 皇太子の隣に座り、自分は英王室の席には加わらずバルコニーにも立てない,1996年の離婚後のダイアナの唯一の拠り所はWilliam とHenryの二人の皇子だけでした。生きていたらきっと身の置き所の無いほど,惨めな思いをしていたでしょう。一悶着どころか,大騒動がおきていた事と思いました。 それとも、ダイアナも生きていたら50歳近く、大人の女性になっていたかもしれません。 チャールス皇太子とダイアナは1992年12月に正式に別居状態に入った。チャールス皇太子からの提案だという。ダイアナは1987年頃、乗馬を近衛騎兵連帯の少将ジェイムス.ヒューイットから習っており,恋愛関係に発展した。当時ダイアナは結婚している身であり,二人の王子を育てていた,近衛騎兵は女王に仕える身であるのに,3年間熱愛関係にあったと云う,それは第一次湾岸戦争まで続いたと云う(1990)。会う場所はケンジントン宮、別荘 ハイグロ-ブだったりした。ダイアナのナイーブな所は、ハイグローブに泊まれば王宮警護隊が付くが、二人は警護官が隣室で寝るのを待ったという警護官は逐一,女王の個人秘書サー・ロバート・フェローズに報告していた。女王は不義を犯してしているダイアナに何の警告も,問いただす事もしなかった。しかし,ヒューイット少佐は昇進試験に落ち、将校になる道は断たれたので,ダイアナ妃との暴露本を書いて金もうけようとして、ダイアナとの関係が終わってから3年後に、タブロイド紙を訪ね歩き、版権を百万ドルで売ろうとしていた。1994年彼女との情事を詳細に暴露する本「ダイアナ妃の恋」が発売され、即売り切れた。しかし、文芸評論家からは手厳しく批判したが,ヒューイットだけが一方的に書いたこの本は、一斉攻撃を受けた。 彼は有名パブリック・スクールを卒業、女王直属の近衛騎兵連帯勤務のプロの兵士である。だから、名誉と品位を保つべきである。ヒューイットは下劣な男、成り上がり者と非難を浴び、国会議員の中には、彼のおチンチンをちょん切るべきだ、彼を死刑にすべきだと云う意見もでた。彼は将校クラブから閉め出され、騎兵隊のパレ?ドにも参加を許可されず、地元のワインバーからも閉め出をくらった。しつこい英国のタブロイド紙は2年後、ヒューイットがフランスの田舎の水車小屋で生活しているのを見つけ出したと云う。 暴露小説が発売された朝、ダイアナは変装して、小走りで近所の新聞売り場にでかけ、タブロイド紙を買い集め、ページを開いたが、信じられないことに、タブロイド紙はダイアナを批判せず, 国民の81%がダイアナが他の男の胸に飛び込んだのはチャールスの所為だと考えていた、61%がチャールスとダイアナはすぐ離婚すべき,73%の国民が英国の君主はエリザベス女王で終りにすべきと考えていた。ダイアナの長年の企み,夫に疎んじられ、姑の女王に冷たく扱われる可哀想なダイアナというイメージ作戦は大衆を欺く事に成功していたのだ。これに驚いたのはエリザベス女王である。女王は亡き父王ジョージ6世(映画「英国王のスピーチ」の主人公)と交わした「ウインザー家の君主制を維持する」事に彼女の全生涯を捧げてきた。それが愚かな娘ダイアナによって崩れようとしている。女王は「愚かな娘」「愚かな娘」と繰りしたという。 女王はダイアナがいつも企みをしている事が嫌いだった。ダイアナは子供の頃、母親に置き去りにされて、他の女性に父親を盗られまいと、新しい家庭教師でも、メイドでも、椅子に画鋲を隠したり、ベッドに鋲を撒いて嫌がらせをしたと云う。父親のスペンサー伯爵自身、僕もダイアナが怖かったと語っている。女王はダイアナが過食症と拒食症を患っていて,精神的に不安定な少女であった事を知らなかった。冷蔵庫一杯の食品を食べ尽くし,今度は指を口に入れて吐くと云う摂食障害を患っていた。大人になっても,例えば、別居を言い渡された日、女王はダイアナを気の毒に重い家族のクリスマスの食事会に招いたが、ダイアナはケンジントン宮に一人籠り,冷蔵庫一杯の食物を全部食べ,そして吐いた。ダイアナはパラノイア(被害妄想狂)気味で、父の後妻(レイン)の母親がバーバラ・カートランドと云う、英国人だったら 誰でも知っている三文恋愛小説家で、十代の頃から安っぽい恋愛小説を頭に詰め込んでいた。そして自分を小説の悲劇の主人公に置き換えていた。読書と云えばタブロイド紙とバーバラ・カートランドの恋愛小説だけであった。彼女は大学進学資格試験に失敗し、スイスの全寮制花嫁学校(Finishing school)でフランス語とスキーを覚えただけであった。 結婚当初から、チャールス皇太子は海外訪問が続き、自分は一人、王室に一人取り残されと「ダイアナ妃の真実」と云う本で漏らしているが、公人としてのチャールスの海外訪問は最初から決まっており、女王は公務予定で多忙を極めていました。ダイアナは精神的に幼く、チャールス皇太子の事務方のオフィスに遊んでもらおうと入って行くと、「ネズミ色の服をきた男達」(王室秘書官が相手をしてくれなかったと恨みつらみをかたっている。無理もありません、チャールス皇太子の公的訪問は、スピーチが必要で,その原稿作り、訪問先の団体、企業内容に付いての事務方によるブリーフィング等ものすごく忙しい。ダイアナは皆が頭の悪いプリンセスとして馬鹿にしていると解釈した。 チャールスとカミラの関係も女王は知らなかったし,ダイアナは不平不満先を女王に向けるべきでなかった。ダイアナは事あるごとに、チャールスは冷酷非情、身勝手な人で、子供を愛していないとタブロイド紙等に発表した.チャールスがダイアナの30歳の誕生日を祝い大きなパーティを企画していたが、ダイアナは出席せず、ダイアナは一人だけで寂しく迎える誕生日とタブロイド紙に書かせた。タブロイド紙は「なんと云う夫だ!」と チャールスを責める記事を載せた。ダイアナとチャールスの泥仕合の様な喧嘩は結婚してすぐ始まったという。 タブロイド紙を上手く味方に取り込む事で、ダイアナはチャールスを一方的にチャールスを悪者にする事に成功した。ダイアナは自殺を2回図ったと云うが、栓抜きが滑って手を切った傷と、数段しかない階段で転んだだけなのに、階段から飛び降りて自殺をした事があるとTVのインタビューで語っている。 チャールスはダイアナの情緒不安はひどく、殆ど狂気に近いと語った。ある夏、サンドリガム宮殿で女王一家と食事中、フィリップ殿下が ウイリアムとヘンリー王子達もそろそろ乗馬と狐狩りの訓練を受けなくてはいけないと語ると、ダイアナはフィリップ殿下に狐狩りは野蛮だと, 大口論になった、怒りが収まらないダイアナはナプキンを殿下に投げつけ、席を立ちました。 王室では女王やフィリップ公に反論することはタブー、しかもナプキンを投げつけるマナーは、国と国なら即座に戦争を触発するものである。 ダイアナは激高すると何をしでかすか分らない性格であった。 ダイアナにとって,チャールスとの別居はそんなに悪い事ではなかった。Princes of Walesの肩書きはそのまま使え、嫌いな公務は行かなくてもよい。彼女は慈善事業に生き甲斐を見いだし,130もの慈善団体の名誉会長となった。素晴らしいドレスを着て,美しい彼女が慈善パーティーに出席するだけで,慈善金は集まり,ダイアナの写真と共にマスメディアに報道される。毎日スポーツジムに通い,身体を鍛え,星占いとか霊媒師の所にせっせと通った。この頃には,Charlesはケンジントン宮から「ハイグローブ」にあるカントリーハウスに引っ越してしまい。彼は事務所も愛人であるカミラもハイグローブに別荘を持ち,ハイグローブ社交界が出来上がった。Charlesと共通の友人達は,ダイアナを避ける様になり,友達の数が減った。というのも,ダイアナは口をひらけば,自分は夫に裏切られた妻,王室の人々に冷たくされたと,十年一日同じ泣き言,愚痴をきかされるからである。彼女自身猜疑心が強く,友達を信じなくなっていた。彼女は寮生活をしている,二人のプリンスの週末の訪門だけが楽しみにであった。 英国では読む新聞にも階級制があり,上流の人達はタイムス(ロンドン),デイリーテレグラフ等の高級紙、 大衆紙ザ・ミラー(THE MIRROR), にザ・サン(The Sun), ニュ-ズオブザワールド,などは英国の王室の人達は多分一生涯で縁の無い新聞であった。 ダイアナ妃は毎日,これらのタブロイド紙などを丹念に読み,特にカミラ夫人がCharlesと一緒にどこに出かけたかの報道を追った。カミラ夫人の写真を載せる前には,手なずけておいたタブロイド紙の編集者に、ダイアナが出席したパーティーの写真を大きく載せ,彼女のハイ・ファッションとカミラ夫人の野暮臭い服装の写真と対比させた。しかし,ダイアナはカミラを恨む事に熱中しているあまり、大事な事に気が付突いてなかった。二人の息子が寮から戻ってきた時にハイグローブで面倒を見るGoverness (家庭教師)を雇うことになった。 ティギー・レグ・・バーンという家柄としてはダイアナに劣らない貴族の娘で、小太りであるが、教養もあり,明るい性格,スポーツ万能である為,王子達の良い遊び相手になった。新聞記事では,チャールスと子供達が出かける時,いつもティギーが同伴して、写っていた。スイスのスキー旅行にも,彼女が一緒に写真に納まっていた。本来ダイアナ自身が収まっている位置にティギーがいる。これがダの嫉妬心に火をつけた。密かに調べると,ティギーはハイグローブに泊まる事が多くなった。王子達を寝かせ付けた後, チャールスと寝室を共にしていると云う情報を得た。ある時ダイアナはティギーが入院したと耳にした。 噂でチャールスとの子供を堕胎したと云う。あるパーティーで招待されていないダイアナが乗り込んできて、ティギーに近づき、「ティギー,赤ちゃんを流産したんだって、お気の毒に!」と囁いた。 ティギーは真っ青になって,気絶し、担架で運び出されたと云う。そして家庭教師を辞め,地方の実家に引っ込んだと云う。 別居していた頃のダイアナには新聞で "Home Breaker」(ホームブレーカー)又は「Home Wrecker(ホームレッカー)(家庭壊屋し)という有り難くな否前が付けられた。その相手の一人が、オリバー・ホア(Oliver Hoa)と云う知的で、静かな紳士で,若い時,旧イラン皇室の庇護を受け,イスラム美術を専門に扱う画商となり彼の洗練されたサークルにロシアのダンサーヌレ-エフ,ローリングストーンのミックジャガー,レッドツペッリンのジミー.ページなどの有名人が集まった。オリバー・ホアにはフランス人の妻ダイアンがいた。チャールス皇太子はイスラム芸術,イスラム文化に興味を持ち,オリバーとダイアン・ホア夫妻をケンジントン宮の夕食会に招いたり、今度はホア夫妻の南フランス、プロバンスの別荘に招かれたりしていた。 ダイアナはホア夫妻に「何故チャールス皇太子はカミラが欲しいの?彼女の何処が特別なの?」と意見を求めた。その内,オリバーは週に2晩位、ダイアナとケンジントン宮で過ごし,妻のダイアン・ホアの忍耐も限度の達した 1992年頃,チャールスにもうこれ以上夫オリバーをケンジントン宮に泊めない様頼んだ。ダイアナは個人的な恐れや怒りを吐き続けた。『私がどんな辛い経験をしているか,ダイアンには分らないの,私にはとんでもない問題を山ほど抱えていて,オリバーの助けとアドバイスが必要なのが分らないのか?」ダイアナは明らかにとんでもなくオリバー・ホアに恋していた。オリバーはダイアナのなだめ役になるのを疎ましく思い始めた。彼の時間はダイアナとの電話に費 やされ,画廊の経営も赤字に陥っていた。1993年になっても,ダイアナの迷惑電話は治まらず、ある時オリバーの妻のダイアンが偶然真夜中に電話に出たら!「ビッチ!(性悪女!) 彼の自由にさせたら!焼き餅焼きのフランスのビッチ!」女が金切り声で怒鳴り始めた。ダイアンが「どなた?」と聞くと電話はガチャンと切れたと云う。夫妻が数えたら、嫌がらせ電話は年に300回あったという。探知をブリティッシュ・テレコムに依頼した。1994年年1月に嫌がらせ電話番号はダイアナのケンジントン宮殿内の2つの電話、ダイアナ の携帯電話、宮殿近くの公衆電話、姉の自宅の電話であったという。ブリティッシュ・テレコムは警察に通報、王室の警備隊に伝えられた。問題処理は女王の個人秘書サー・ロバート・フェローズ(ダイアナの姉のご主人)に伝えられた。怒りに駆られ、真夜中、王室の中や,外の公衆電話を探しまわる,ダイアナ妃も相当精神的にイカレテいると思うが、彼女を可哀想におもった。英国の公衆電話は壊れている事が多く、嫌がらせ電話をかけるのに,ケンジントン宮近くを相当捜し回らなくてはならず、怒りのエネルギーを継続させるのは大変だからだ。 「ホーム・レッカー」(家庭壊し屋,レッカーはレッカー車のレッカーだ)とタブロイド新聞に毎日のように書かれたのは,英国のラグビーチームのセクシーなキャプテンのウイル・カーリングを巡ってかれの妻ジュリアとタブロイド紙上で展開したカーリング争奪戦である。ある時ウィリアム王子とヘンリ-王子がTVでラグビーの試合を見ていた。彼等のヒーローは英国代表ラグビーチームのキャプテン、ウイル・カーリングである。彼はスポーツジムで見かけたことがある。1994年夏頃、息子達が会いたがっているからと,カーリングをケンジントン宮に招いた、それ以来彼は度々ダイアナを訪れる様になり、カーリングの間に交換手を通さない電話,ホットラインを敷いた.彼には結婚して1年経った妻のジュリアがいた.ジュリアはPRコンサルタント会社を経営、モデル,TVの司会など活躍していた。しばらくして,英国で最も扇情的な新聞「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」が一面トップで,過去18ヶ月二人が逢瀬を重ねてきたとすっぱ抜いた。ウイルの妻ジュリア・カーリングは容赦ない攻撃を仕書けた。 ジュリアンにはこのスキャンダルで自分を売り出したい節があった。「夫と私の絆は強いので分かれない」とゴッシップ紙や、TV番組で繰り返し語った。ジュリアの人気が上がり,さらにTV番組の司会の仕事が増え、売り出した美容器具がよく売れた。ダイアナも、自分とウイルとのデ-トの現場の写真や、王宮に乗り入れる彼のアシュトン・マ-ティンの盗み撮り写真をゴッシップ紙に掲載させ、応戦している。ある日、スポーツジムでダイアナが目を真っ赤にして,出てくる所を目撃されている,ウイルから別れようと云われたとの事。彼はその後奥さんのジュリアとも離婚した。ダイアナは「私はジュリアに勝った」と勝利宣言したと云う。ゴッシップ紙ではダイアナは欲しい男は既婚者であろうと,狙ってくる「ホームレッカー」(家庭壊し,持ちさり屋)という非難を浴びた。ダイアナは大衆を敵に回してはいけないと心配になった。騎兵隊少佐ジェームス・ヒューレットがダイアナとの不倫を「チャタレー夫人」張りの暴露小説に仕立て、チャールス皇太子の写真立てのあるベッドで…..とか、ダイアナから湾岸戦争の前線にいるヒューレットに届いた何通ものラブレターを掲載しても、一般大衆はおとぎ話の御姫様の様な純粋なダイアナがそんな事をする筈が無いと信じ込んでいる。もし自分の聖女というイメージが崩れて、あばずれ女であるとバレてしまったら,大衆の支持を失ってしまう。 ホームレッカーのイメージを拭う為にも、慈善活動に勢を出す以外にない。ある晩、ケンジントン宮殿から匿名の電話がタブロイド紙に入った。「ダイアナ妃がお忍びで、マーズデン病院の患者を見舞いに入った」と云う電話であった。駆けつけた新聞記者達の前に、スポーツ着のダイアナ妃が現れた。見舞いに行ってきたと云う。記者達は裏をとる為に、病院関係者や患者を捜したが、誰もダイアナと会っていないと云う。 1995年11月ダイアナは BBC放送のパノラマと云う番組のTVインタビ-を受けた、これはダイアナの隠密作戦で、王室に知られたら止められるので、バッキンガム宮殿側の承認を得ずに行われた。この準備の為、1995年春から夏にダイアナは広報会社、TV、新聞社の幹部、マーケティングの大物を次々昼食会に招き、離婚後自分は海外に出て親善大使になり、慈善活動を続けて行く事に助言を求めた。 これはダイアナが周到に用意したロイヤルファミリーへの復讐だったのである。パノラマのインタビューは目を見張る内容で、プリンセスが王室の許可を取らずに王室批判するのは反逆行為だ、ある新聞は「詐欺的行為」で陰険な行為だと批評した。 彼女は自分が過食症であり、過食と嘔吐をくりかえした。 自分の結婚生活はチャールスとカミラと3人で始まり、憂鬱症に悩んだと語った。彼女は3年間におよぶジェームス・ヒューイット騎兵隊少佐との不倫を告白した。これは信じまいとする英国大衆にショックを与えた。ダイアナは チャールスとそのスタッフを「敵」と呼んだ。 ダイアナは極めて巧妙に,チャールスがまったく国王にふさわしくないと印象付けるのに成功した。BBCのインタービューワーが「チャールス殿下が国王になる事を望んでいると思われますか?」という質問に対し、ダイアナは「チャールスと話合った時、いつも葛藤が見られました。皇太子の仕事は過酷な物ですが、国王の仕事はもっと厳しいものです。私は殿下の性質を良く知っているので云うのですが、殿下にとって大変きついと感じられるでしょう。私は殿下がそれに順応出来るかどうか何とも言い兼ねます」と語り、それからダイアナは君主制 に付いて、もっと国民との接触がある事を望みます:と答えた。バッキガム宮殿のスタッフはダイアナが図々しく女王に君主制のあるべき姿を教えるなんて、皇太子妃は頭が狂ったと語った。ダイアナは王室の権力構造は私を離婚させようとしています。彼女は自分の将来に対する野心として「我が国の大使になる事」を望み, 彼女はなろうとした大使の性格は、「人々の心の女王」になりたいと思いますと語った。当初インタビューは国民から大喝采を浴びた。新聞は彼女の誠実さを賞賛した。放送直後、ダイアナの報道官、ジェッフリー・クロフォードは辞任した。ダイアナからBBCに付いて事前相談を受けていなかった。二人目はニコラス・ソームズ(ウインストン・チャーチルの孫,現在外務大臣)はあの発言は皇太子殿下の地位を著しく傷つけると語った。政治家はダイアナを海外の政治に巻きこまれる大使の仕事は難しい、と語り始めた。 ダイアナの華々しい報道のかげで、皇室関係者が(女王夫妻、アン王女、グロスター公など10人が公務についていた。王室関係者の公務活動はダイアナ報道のお蔭で地方紙にも1行も取りあげられなくなっていた。エリザベス女王がタイを訪問した時も、ダイアナの派手な報道の陰で,女王の訪問記事は小さく報じられるだけであった。 英連邦から離れたがっているオーストラリアに対し、不勉強なダイアナは、英連邦の団結とかを呼びかけ英王室の内政干渉だとオーストラリア国民の気分を害し、英国外務省を慌てさせた。外交にはデリケートな問題が多くあるので、ダイアナが扱うには無理がある。 ダイアナはBBCパノラマの番組で,チャールス皇太子に対する意図的な報復が大成功におわり、大得意で何が何でも親善大使になろうと世界の慈善団体を訪問し始めた。日本の皇室でも、皇太子妃雅子さんがヨーロッパにいる父親訪問と云う理由で、オランダ王室と王室外交の様な事をした。驚いたのは天皇と皇后が記者会見をして、「これまで私達は海外訪問を度々してきましたが,一度として、自分の休暇で海外訪問した事が無く、全て公務であった」と語り、暗に雅子さんが休暇をとり、勝手に王室外交をした事を非難する口ぶりであった。特に雅子さんは元外交官であったので、彼女が海外で語った事が言質に取られたりすると外務省としても困った立場になる事もある。日本の皇室も、ダイアナ妃が親善大使になりたいと語り、英王室の許可が下りなかった事が頭にあったのではないかと思った。 1995年12月ダイアナは女王から手紙をうけとった。命令口調で出来るだけ速やかに離婚する様に求めてきた。ダイアナは泣いたり、わめいたり、ゴミ箱や書類を投げ,口に出せない様な汚い言葉で王室関係者をののしった。一時、離婚条件を呑むつもりでいたのが、数分後には弁護士に無視する様に云ったり、コロコロ意見が変わった。彼女の烈しい感情の起伏、罵詈雑言に耐ええかねた秘書が3人が辞め、運転手までも辞めた 1996年始め、ダイアナは宮殿に籠り、チャールス皇太子の所有地、財産のメモを取り始めた、チャールスが海外訪問で贈呈された記念品や工場や施設からの記念品もメモした,こういう所だけはしかりしている。新聞で、チャールスの海外訪問の記録を調べ、どんな贈答品があったか調べ、有田焼の花瓶は市場価格でいくらかも調べた。 IRAに暗殺された、故マウントバッテン卿の遺産はチャールス皇太子に渡っているはずだから、調べる様、弁護士に伝えた。全ての財産の半分は貰う積りでいた,しかし,これは一般の離婚である。弁護士は女王が義理の娘の要求を飲むつもりは全くない事を知った。アナが条件を飲まなかったら"Diana, Princes of Wales"の称号は与えない。ダイアナが望んだ"妃殿下"HRH (Her Royal Highness)の称号は許されなかった。女王は彼女 がDiana Princes of Wales の称号は許し、二人の王子の母親として扱う事を認めた。ダイアナは2,800万ドル(3億3千万円)貰う事になった。ダイアナはこの条件を飲む以外になかった。ダイアナは今後も王族として扱われ、王位継承者の妻としての恩恵を享受出来る事を容認した。プリンセスの場合、王室、国内、国外を王の要請に基づいて行われる。王室のメンバー同様、プリンセスの海外訪問は外務省の協議と女王の承認の元に行われる。これはダイアナの「人々の心の女王」,つまり王室の移動大使になりたい希望を一蹴した。 ダイアナは仕返しの積りで、即座に100以上の慈善団体の代表を辞任した。「私が辞めたら、英国の慈善活動はどうなるか、分らせる積りだ」と語った. 1997年七月、ダイアナは二人の息子を連れて、女王の承認を取らずに、モハメッド・アルファイドの南フランスの別荘に招かれた。アルファイド氏は王室が一番嫌う男であるが、ダイアナは王室を困らせる目的で招待を受けた。チャール皇太子が 7月18日カミラ夫人の誕生祝いの大きなパーティを開く予定で、その時期英国にいたくなかったし、二人の王子を出席させたくなかった。カミラ夫人の誕生日パーティの報道はダイアナと二人の王子が地中海でジェットスキー楽しんでいる様子が世界中の新聞、雑誌に出た報道でかき消された。ダイアナはセクシーヒョウ柄の水着であった。王室は大騒ぎになった。女王の許可を取らずに二人の王子をつれて出国したからである。(今であったら、テロリストのアルカイダに誘拐される恐れも十分にある)。7月20日までダイアナと息子達はアルファイド氏のジョニカルにと云うヨットで夏休みを楽しんだ。私は、ダイアナ妃が一時の憎しみという激情に身を任せず、もう少し思慮深かったら、彼女の人生は違ったことになっただろうと思う。まず、チャールス皇太子に仕返しするつもりで、軽薄な騎兵隊将校のジェームス・ヒューイットと不倫をしなかったら、暴露小説を書かれることもなく、チャールス皇太子との別居はなかったであろうし、別居中に王室に復讐する積りで、BBCのパノラマに出て、チャールスが次期王様にふさわしくないと云わなかったら、又、女王の君主制を批判しなかったら、女王から離婚命令はなかったかもしれません。女王は二人の王子が成人になるまで、別居状態を認めようとしていたのです。カミラ夫人の誕生パーティーからマスコミの関心をそらし、自分の方に関心を集める為に、王子二人を連れて, モアメッド・アルファイドのフランスの別荘に出かける様な軽率な行動をしなかったら、アルファイドの息子ドティと運命を共にする羽目に陥らなかったかもしれませんし、パリでの自動車事故は起きなかったかもしれない。全て彼女自身が招いた結末である。 英王室はチャールスとカミラ夫人の人気回復作戦に乗り出している。しかし、国民は次期国王にチャールス皇太子より、ウイリアム皇子を望んでいる。チャールス皇太子の内気な性格は父親であるエジンバラ公自身がギリシャから亡命し、家庭生活を経験しなかったため、父親らしい教育をしなかった所為だと云われている。又母親のエリアベス女王も公務に忙しく、息子に十分な愛情を注がなかった。女王は馬の繁殖では英国一だと云われ、馬主として競馬場に頻繁に姿を現す。もし女王が馬に注ぐ愛情の半分でも、チャールス皇太子に注いでいたら、もっとましな皇太子になっていただろうという意見もある。 終 柴田 |
![]() |