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(80)映画「英国王のスピーチ」に至るまでの英国王室史 |
これは財閥系企業の社長会に招かれ、英国王室に付いてスピーチをしたときの原稿です。 下世話な話題でしたが好評でしたので紹介します。ダイアナ妃についてはもっとショッキングな話が続きますが、又別の機会に紹介します。 英国王室史と日本の天皇制と較べてみると、英国には古くから事細かに記録されているのに対し,日本の天皇や皇族に関して書いたものが殆どない。英国ではすべての王様について,どんな体格か,体重、何人の女性と寝たか,性病に罹っていたかどうか,病気に対してどのような医療が施された(温泉療法や,ヒルに血を吸わせたとか)事細かな記述がのこっています。英国の王様は代々跡継ぎが出来にくく、跡継ぎ確保の為に,男の子せっせと王妃や愛人に子供を産ませるのが主な仕事でした。日本語で云うと愛人,お妾さんでも,英国の王様の愛人は「Royal Mistress」とRoyal が付くとなにか有り難い肩書にきこえます。さすが悪名高きタブロイド新聞の国だ、古くからゴシップ記述が残っている。 日本の皇室の様に万世一系ではなくて,英国の王家はチューダー朝(15?17世紀)、スチュワート朝(17世紀初頭)、ハノーバー朝(17世紀?19世紀),ウインザー朝(1917年-現在まで) 王家がころころ変わります.家系が途絶えそうになると、過去に英国王室から嫁に行ったドイツとか,オランダとか、かすかな血筋をたどって,王様に迎える事もありました(ハノーバー王朝)。 英国の王室史で極悪非道な王様はシェークスピア等によって描かれていますヘンリー8世(エリザベス一世の父親)、男子の後継者を得る為に6回結婚しました。男の子を産まない王妃を陰謀だとか,姦通罪をでっちあげて、ロンドン塔に幽閉,死刑にしました。離婚に反対する枢機卿までも死刑にした。 ヘンリー8世は18歳で即位した(1509年)頃の英国はヨーロッパの周囲のカソリックの国々(スペインやフランス)の圧力を受け,言いなりになっていた。 だから、早死にした兄の妻、キャサリン・アラゴンを王妃に押しつけられた。キャサリンはスペインの王家の出身であった。ヘンリー8世は離婚しようと何度も教会に申請したが,受け付けられず。英国は神聖ローマ・カソリック教会から離脱して,英国国教会を制定した。これに反対したトマス・モアと云う宗教学者を処刑している。その頃ドイツではマーチン・ルターの宗教革命(プロテスタント)が起きている。 英国での宗教革命はヘンリー8世が離婚したいが為に起きた。ヘンリー8世の最初の妃,キャサリン・アラゴンを先祖に持つ,フランスの侯爵家のプリンセス(Marquis, princess, Beranger Aragon)というお姫様がかって私の家に2ヶ月ほど泊まっていました),本当のお姫様で何も出来ない人で,困ってしまいました。スペイン系ですから黒い髪の毛を持ち,すみれ色の大きな目をしたきれいな女性で、東京中の独身の欧米人から,お食事に招待したいと云う電話がありました。現実は2ヶ月間いくら勧めても,お風呂、シャワーをつかいませんでした。下着は垢でネズミ色でも洗おうとはしませんでした。2ヶ月で他所に移ってもらいました。 そんなにやんごとない王妃を祖先に持つ人と知っていたら、もっと大事にしてやれば良かったと後悔します。その時,助けた英国の年配の特派員を頼って、一緒に香港,カリフォルニアと移り,二人ともひどいアル中になり, princes of Aragonの方はパリの精神病院にいるそうです。特派員は英国で亡くなりました. ヘンリー8世は二番目の妻アン・ブーリンを王妃に迎えた。このときまで英国には,女王の例がなく,ヘンリー8世は世継ぎは男子に限るときめていた。男子の後継者を作る為に次々と結婚したが、赤ん坊は死産か、女の子あった。最初の妃キャサリンとの間に6人の子供をもうけた。赤ん坊は幼くしてなくなり,女児メアリーだけが生き残った。 2人目の王妃アン・ブーリンはヘンリー8世の寵愛受け,権勢を欲しいままにした(親戚等を伯爵などに取り立てたりして)、王妃キャサリンを追いだしにかかり、新しいカンタベリー主教を任命して,正式に王妃になった。しかし、産まれた子供はエリザベス1世で ヘンリー王はひどくがっかりしたという。最初の王妃キャサリンとの間に産まれた娘メアリーとエリザベスの二人を庶子として登録している。 ヘンリー8世の8世の関心は次のジーンシーモアに移っていた。アン・ブーリンを疎み、アン・ブーリンがロンドン塔で首をはねられたその日にヘンリー8世はジェーン・シーモアと結婚式を挙げている。ジェーン・シーモアは待望のエドワーード王子を産んだが,次の出産で産褥の為に亡くなった(人々はアン・ブーリンのたたりだという)。アン・ブーリンの幽霊は命日に良く目撃されると云う。血まみれの首無し御者が血まみれ首を膝に乗せてロンドン塔に向かっているというものだ。ヘンリー8世は18歳で即位し、フランスで遊び,梅毒になったという。その為に最初の妻との間の子供が5人亡くなり,初めての息子エドワード王子の16歳での死亡、ジェーンシーモアと最後の王妃キャサリン・バーが共にお産で命を落としているのも。梅毒のせいだと後の学者はいう。さらに最初の妻キャサリンとの間の子供で唯一生き残った娘メアリーが英国で初めての女王となり,スペインのフィリッペ皇太子と結婚したが子供ができなかったのも,エリザベス女王が独身を通したのも(彼女も腫瘍に悩まされた)父親の梅毒が原因と歴史家はみている。アン・ブーリンの娘エリザベスは、最初の王妃キャサリンの娘,メアリーと共に ヘンリー8世の6番目の王妃に救われた,彼女は教養があり、二人のプリンセスをそれまでの庶子の立場から,王女の立場に戻し、嫡男エドワード王子と一緒に帝王学を施した。 お蔭で,エリザベスはフランス語,ラテン語,ギリシャ語など6カ国語が話せ古典学問にも修得していた。1547年ヘンリー8世はわずか10歳のエドワード6世であった(6年半で病死)。 ヘンリー8世の時代のヨーロッパでは領主が自分の臣下の娘の初夜を奪う「初夜権」や,気に入った娘や,人妻をつまみ食いする「略奪権」があったという.ヘンリー8世は度々この権利を行使したといわれる。彼の功績は、兄嫁のお下がりの,スペインからのキャサリン王妃を離婚したいがゆえに宗教改革を行った事と、海軍の近代化を図った。お蔭で、娘のエリザベス一世は当時、無敵艦隊と恐れられた、スペインの海軍を破った. ヘンリー8世の死後、最初の妻キャサリン(スペイン王家出身)とのあいだの娘メアリーが英国で初めての女王,「メアリー女王」となった。メアリーは母親がスペイン王家出身であるので,カソリック復興に力を発揮して,英国民の反対を押しきて,37歳でスペイン王カルロス1世の長男フェリペ(11歳年下)と結婚した. 女王メアリーはカトリック復帰のため、プロテスタント弾圧、300人近くを次々と火あぶりする恐怖政治を行い,英国をスペインの属国に押しやった よく外国人が二日酔いの次の日に呑む、迎え酒をブラディー・マリー(血まみれマリー)と,呼びますが,これはウオッカ・ベースで、トマトジュース,レモンスライス、ウスターソースで作るカクテルで,真っ赤な色のためにブラディー・マリー(血生臭いマリー)と呼ばれます。これは女王マリーの残虐さからきています。 当然の事ながらメアリー女王は母親キャサリンアラゴン)を離婚に追いやった,アン・ブ-リンの娘エリザベスをロンドン塔の牢獄に幽閉した。反逆者の門から入った者は2度と出られないジンクスがあったが2か月で釈放された。この血塗られたメアリ女王が病死した為,エリザベス一世が28歳で女王として即位した(1558年)。彼女に求婚する人は沢山いた。姉のマリー女王と結婚していたスペインの国王フェリペ2世も求婚してきた,英国を属国とし続ける意図からである。フランスやデンマークの王家も英国支配の為にエリザベスとの縁組みを狙った。エリザベスは「私は国家と結婚しています」と答えた。 エリザベス一世の時代の英国はまだ小国で,海賊で国の歳入を賄ったといわれます。フランシス・ドレイク(元黒人奴隷商人)と云う海賊がスペインの商船を略奪して,国家財政を補助していた功績で彼は男爵の称号を授かっている。このドレイクが西インドスペイン領を襲撃した時,タバコを持ち帰ったと云う 英国でのタバコの喫煙の始まりである。始めの頃煙を嫌う意見があったが、タバコ税をかけ,税収入が増えるに従って,禁煙の意見は消えたと云う。なんとタバコ税は16世紀に導入されたことになる。 エリザベス一世は父親ヘンリー8世が作って残してくれた,当時最強の艦隊を引きいだ。当時スペイン艦隊は奴隷に依存するガレー船(船の横の穴から,何本ものオールを出し,何百人の奴隷が漕ぐもので,シーザーが戦ったローマ時代と何の進化も遂げていない)。英国の艦隊は帆船で,積載量も多く,速く,片側で砲撃ができ、砲撃戦に適していた。1588スペインの無敵艦隊130隻(戦艦22隻108の商船,)が英国の艦隊(わずか88隻)と 「アルマーダ」の海戦で戦った。ドレイクは船に爆弾を積んで,火をつけ,スペイン艦隊に突入させ,大混乱を起こし,スペイン艦隊はイギリス艦隊から集中攻撃を受け,敗走した。 エリザベス1世は大変抜け目なく,粘り強い権謀術策を用い,宰相や,寵臣を自由に操ったと云われます,それは子供の時の悲惨な経験からくる物だといわれています。 それから、 ビクトリア女王にまで続くハノーバー王朝(ジョージ一世からビクトリア女王まではほとんどドイツ人)について説明します.初代のジョージ1世は英語が全く話せず,半年はドイツ・ハノーバーにいたと云う.この英語の分らないジョージ1世の時代に「王は君臨するが、統治せずと(King reigns, but does not govern)と国王に代わって、内閣が責任をとると云う責任内閣の基礎ができたと云われています(議員内閣制)。ジョージ2世,3世,4世も,王妃はドイツから迎え,純粋なドイツ人であった. このハノーバー王家の王様達は箸にも,棒にも引っかからない放蕩三昧の王様が多く、特に ジョージ3世は、王位60年で歴史上2番目に在位が長いが,彼の時代,アメリカがイギリスの植民地から独立し(1786年),そのショックで精神的錯乱を起こし,後半30年間は精神障害で,温泉地で過ごし、政治には殆ど,ノータッチであったと云う。 その息子ジョージ4世は放蕩王と呼ばれる。放蕩三昧をして、金に困り,結婚すると皇太子歳費が貰えると聞き,正式な結婚をする気になって、ドイツ出身の大金持ちキャロラインに借金をすべて肩代わりしてくれる事を交換条件にした。このキャロラインは風呂嫌いで有名で,風呂に入った事がなく,彼女が部屋に入ってくるだけで,人々が失神するほど、体臭がきつかったという。ジョージ4世は大酒をのんで、鼻に詰め物をして、初夜の義務を果たしたといいます。それ以来キャロラインを避け,愛人との生活を続ける。26年後,父王が亡くなり,戴冠式を迎えた時、キャロラインの王妃の称号を剥奪しようとしたが,それは議会で否決された。戴冠式に無理に出席しようとするキャロライン王妃をジョージ4世の取り巻きが,公衆の面前で実力で彼女を排除した。戴冠式の数日後,キャロラインは心労のため亡くなった。 このハノーバー王朝でどうしようもない放蕩な王様が続いた中で、まじめで,模範的な君主がその次のビクトリア女王で18歳で即位した.3年後にドイツ育ちで,従兄弟にもあたるザクセン・コブルク家のプリンス・アルバートと結婚しました.ビクトリアの一目惚れだといいますが、英国民はこのドイツから輸入された女王の夫君にがっかりしました。ビクトリア女王はは身長150センチ足らず,美人とは云えない、中年以降は大変太っていた,それに対しアルバートは190センチの美男子で,ボン大学出身,法律と経済学を学んだ。彼はビクトリアの秘書兼相談役を務めた。22年間の結婚生活で4男5女の9人の子供を産みまし。ビクトリア女王が亡くなった時点で既に孫とひ孫が30人もいて,夫々がヨーロッパの王家と縁組みしていました。今日の王室の規範を作り,モラルを作ったのはビクトリア女王といわれます。よく英国人の夕食会で,今夜英国から来ている僕の年取った母親がVictorian なのでと招待状に注釈が付けてあります。"ビクトリアン"とは、ビクトリア女王時代のかお固いモラルを持った女性であるので、下品な話はしないでっくれとクギを刺したのである。このVictorianと云う表現はよく耳にします。 私自身「ビクトリア的」という表現を英語の記事で使った事があります。 日本のウオッシュレットという水洗トイレが日本ではこんなに普及しているのに,欧米では受け入れられていないと云う記事を書きました。その中で,日本の女性,特にOL はトイレを使用する時、水洗を流しながら,用事を済ませます,水洗の音が他の音を消すからです。ある水不足の夏、節水の為にトイレに水の流れる音を録音した「音姫」とか,「トイレトーン」を女子トイレに設置したと云う記事を書きました。その時,に本女性の行儀良さを表す言葉を英語に治すに「日本の若い女性はビクトリア時代の女性の様に行儀がよいので」と云う表現を用いました。これで英国人にも、米国人に直ぐ分ってくれました。 ビクトリア女王の時代は大英帝国として,世界の海を制覇し、世界中に植民地を持ち,日の沈まない国となった.産業革命による工業化も進み,ビクトリア女王の夫君アルバート公による,「第一回ロンドン万国博が1851年におこなわれている。ビクトリア女王とアルバート公は それまで腐敗し切った王室を立て直し,模範的家庭生活のモデルとなった。アルバート公は42歳でチフスでなくなった.ビクトリア女王は40年も生き伸び,彼女は夫に惚れぬいていたので、10年近くも喪に服し,公式の場に姿を現さなかった。 今日東北地震で,お祭りや,楽しい行事が取りやめ,自粛になっていますが,ビクトリア女王は10年も喪に服し,全ての祝賀行事を取り止めたために国民の不満も高まり,政治も放ったらかし,こんな女王要らないとまで云われる様になりました。10年後に女王は姿を現しましたが生涯黒ずくめの喪服姿で通しました(残っている写真は全て黒い喪服姿です) 家庭思い,夫思いの貞女ビクトリアは模範に至っては神格化された。この時代,工業化が進み,職場は男の領域と家庭は女性の領域という完全な分化が進みました.熾烈な生存競争に傷ついた男を迎え。その傷を癒す天使の役割を与えられ、良妻賢母の心得が刷り込まれた.結婚,家政,エチケットに関する手引が数多く出された。結局は産業革命による英国の工業化に,女性が家庭で援護にまわると云う資本主義に組み込まれて行ったと云う方がよいでしょう。私が驚いたのは英国大使館の公使のディナーパーティでした。 その外交官は独身であったので,私が,テーブルの反対側,(奥さん役)に座る事を頼まれました。主賓は昔,アフガニスタンでハイ.コミッシヨナー(高等弁務官をやっていた、英国植民地時代の様な外交官でした。食事が終わると、私が他の奥様方を誘って二階のお化粧室に退席しなければなりません。 男達はそのまま残って,意地汚くワイン,ブランディ,葉巻きを楽しむ。 1時間位して,客間で再び女性達と合流する。 私はどうしても,アフガニスタンの高等弁務官の人と話を続けたかったのですが諦めて2階に行きました。まるで女が男の会話について行けない、女性は劣等だと差別されているようだと、高等弁務官に文句を言ったところ、この風習はビクトリア女王の時代からの伝統であると彼は云いましたが,先日「Victoria」と云う1987年出版の英語の本を読みましたら,ビクトリア女王もこの伝統的慣習を嫌ったそうです,たとえ,君主であっても,女王は一女性であって、二流の身分として扱われたと事を嫌った云う事が分りました。 ここで面白い逸話が残っています。ある晩ビクトリア女王とアルバート公が口喧嘩して,アルバート公が自分の部屋に籠ってしまいました。ビクトリア女王がドアをドンドンと叩くと、と,中から「誰ですか?」とアルバート公が聞きました。ビクトリアは「英国の女王です」と云いましたが、ドアは開きません。2?3回繰り返してもアルバート公はドアを開けません、そこで,ビクトリアは「ドアを開けて下さい,貴方の妻です」と云った所,アルバートはドアを即開けたという逸話がのこっています。 女王の夫アルバート公の功績は1851年のロンドン万国博覧会の開催であるが,もう一つの功績は王室の組織改革の断行があった。それまで,王室は腐敗していて統制が捕れていなかった.複数の曖昧な権限を持つ官職が存在していて,お互いに牽制しあっていた。宮殿内には不便と浪費と背任行為が横行していた。アルバート公は詳細な調査を元に,既得権と伝統的な悪習の一掃に挑んだ。今で云う「仕分けを行った」のである。 改革にはつきものの不平不満の声が一斉に上がったが,張り合っていた官職は一本化され,乱脈な役得が消滅したと云う。 この時代「道徳」が多いに喧伝され,文学の中でも,性的表現は御法度であったという事ですが,実際には道徳的退廃が深まり,ロンドンの売春は市場空前の規模に達し,売春婦の数はロンドン市だけで8万人位、中心部のピカデリーサーカスでも1万人ぐらいいたといわれています。 ビクトリア女王が64年近く王位に付いた為,割を食ったのが息子エドワード7世で,彼は60歳で王位に就いた,そして在位期間は10年であった。現在のチャールス皇太子も,エリザベス女王が長寿であるので 即位するときはエドワード7世の記録を塗り替える可能性が高い.エリザベス女王は死ぬまでは絶対退位しないと語っています。 ビクトリア女王は皇太子エドワード7世がハノーバー家の放蕩の血を引いているので,それを抑える為に,彼が21歳の時,美人で誉れ高いデンマーク王女アレグザンドラを王妃として迎えました.アレグザンドラは夫の放蕩三昧に加え,姑ビクトリア女王の干渉にも耐えた。母親ビクトリア女王はエドワ-ド7世に政務にはタッチさせなかった。その腹いせに,狩猟や社交に,100人もの女性(ロイヤル・ミストレス)と関係を持った。ここにチャールス皇太子と再婚したカミラ夫人の曾祖母である,アリス・ケッペルが登場します。彼女はエドワード7世の最後の愛人した. 賢夫人と云われたアレグザンドラ王妃はエドワード7世が危篤になった時,死に際に愛人アリス・ケッペルを呼び,最後の別れをさせたといいます。 現在のカミラ夫人はこの話が好きで,いつも曾祖母のアリス・ケッペルの話を持ち出すそうです。 何か因縁めいた感じがします。 この後ジョージ5世が王位を引き継ぎます(1917年).彼は放蕩のハノーバー家にとって珍しくまじめで 誠実な国王であった。 当時ドイツとの第一次世界大戦が起り、ドイツ色の強い王家は窮地に立たされ、ドイツ的なハノーバー王朝を「ウインザー王朝」に呼び名を変えました。それから,王室内のドイツ的な名前の人は英国風に名前に買えました。又それまでの王族の結婚相手を王族に限るから,貴族でも良いという制度に変えました(世界の王族が革命なので廃続になったりしたから)です。それであるので息子ジョージ6世の妻はスコットランドの貴族の娘エリザベスを迎えまし(映画国王のスピーチで出てくる国王妃です)。 兄エドワード8世が「王冠か恋か」の選択で、シンプソン夫人を選び,突然退位したため,ジョージ6世が即位する事になり,映画の中で出てくる様に、彼はドモリがひどく、王妃エリザベスの内助の功で、王位を全うした.第二次世界大戦中ドイツの空襲をうけても、ジョージ6世と王妃は疎開せず,防空壕を掘ってロンドンに居残って,国民を元気つけた。ヒットラーはこの王妃をヨーロッパで最も危険な女性と云っている。彼女はエリザベス2世の母親である事から[Queen's mother] と呼ばれ、国民に慕われ、王室で,最も長生きして2002年に101歳で亡くなりました。 シンプソン夫人との恋を選んだエドワード8世は,ウインザー公となり,フランスで悠々自適の暮らしをした,彼はイギリス訪問を望んだが,親族の葬式に夫人と一緒の出席を望み,王室から拒否された。それはシンプソン夫人がかってイタリアの外交官と付き合いがあり,ファッシズムの影響を受けたからで、特に第二次世界大戦中ウィンザー公夫妻はヒットラーと接近し,ナチスの片棒を担ぐ行動に出た。ウインザー公の英国王室に対する不満につけこんだドイツは、もしドイツがイギリスを敗北させたら、ウインザー公の復位を約束したという。 ヒットラーの接近を恐れたイギリスはウインザー公を1940-45年まで,バハマ提督に任命した.弟のジョージ国王6世の葬儀の時も、ウインザー公だけ出席を許され,シンプソン夫人は出席できなかった。1972年ウインザー公が癌で死去した後,エリザベス女王から英国訪問を許されたシンプソン夫人は昔の高飛車な態度は姿を消し、オロオロして泣くばかりで,しきりに申し訳ないを連発した、ウインザー公に可哀想な事をしたと泣いてばかりだったと云う。 1986年に彼女は亡くなった,ウインザー公がシンプソン夫人に贈った華麗な宝石のコレクションは、サザビーズのオークションに掛けられ、5千万ドルに上ったと云う、全て,パスツール研究所のエイズ研究基金に寄付したという。 エリザベス2世の任務はジョージ5世が作ったウィンザー王家を引き継次の世代,チャールス皇太子,さらにウイリアム王子に引き渡すことである,そして君主制に対する国民の尊敬を取り戻す事ことである。 ビクトリア女王から引き継いだ王室規範を守る事である。女王は英国国教会の首長であり,昔ながらの伝統を固持した。この国教会は国王ヘンリー8世(1509年6回結婚した)結婚問題を契機として誕生したものだ。この国教会の規定により叔父のウインザー公も シンプソン夫人が2度も離婚している、妹のマーガレットの結婚も,彼が離婚経験があると云う事で果たせなかった。 今や英国の離婚率は40%を超えており、再婚者同士の結婚を許すべきだと,カンタベリー大主教と協議を重ね,チャールス皇太子とカミラ夫人の離婚歴のある者同士の結婚を許す事にした。 女王とフィリプ殿下のモットーは高潔に、控えめにである、一方ダイアナの目指しているのはモナコ王室のグレース王妃の様なハリウッド的はでな生き方である。 劇作家ジョン・オズボーンはエリザベス女王を評して、「女王は、虫歯だらけの口の中の金の詰め物である」と語っている. 終 柴田 |
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