ジャーナリストのパソコンノートブック |
(79)ダイ・ハード・ヨーコの地震顛末記考えられなくなった |
私は本当に多くの事故、事件に巻き込まれる。今回の地震の時もそうだ、一年に一度位しか訪れない御徒町・アメ横にあの日、あの時間を選んで出かけたのは自分の宿命なのかと怖くなる。普段、原稿の締め切りが重なる時は前もって、京都料亭の蒸しおこわ寿司、うなぎや、穴子入りで竹皮に包まれ,冷凍で送られてくる、電子レンジ1分温め、パソコンを打ちながら食せる。美味しい緑茶、脳の栄養の為にチョコレートを準備する。これら備蓄が全て切れてしまった。私の家の近所は東京海洋大学、深川三中、超中島小学校、都立第三商高、芝浦工大と学校しかないので、すぐ近所と云う訳にはいかない。なんとかしなければと、御徒町に買い物に出かけた。御徒町に出かけるには それなりの動機があった。アメ横には私の大好きなハワイのコナのコーヒ-がある(特にマカデミアとシナモンの香りのコーヒが大好物)。中華材料店では"苦丁茶"(クチュウ茶)というダイエットに効くお茶がある。 御徒町に出かける1週間前、長い記事を書いて明け方e-mailで送ろうとしたら、インタ-ネットが使えませんと画面に出てくる。冗談じゃない、このパソコン(MacBook Pro)は昨年11月に買ったばかりだと、大格闘が始まった。数時間格闘後諦めて、朝になったら"インターネット家庭教師"とか、修理をしてくれる人を呼ぼうと、デスク回りの掃除をはじめた。MacにはWindowsの様に教則本がまったくない。このMacは昨年2日も寝ずに,自分で立ち上げたのだからと、アカウント名、メールアドレス、POP サーバー名 SMTH名、NTTのID番号、パスワード番号などを書き出しておいた。そしてだめ押しと、インターネットの設定をもう一回やってみた。そこで初めて、問題はNTTのサーバーにある事が分った。そこでサーバー(光電話ルーター)の仕様書を捜し、ルーターのPPPと云う高速接続ソフトウエアーに問題がある事が分り、ネット上で修理出来た。これは私にとって格段の進歩で、人間は歳をとっても進化すると、自分でも信じられなかった。記事を送る事が出来たのは昼を過ぎていた。私は体力的にはまだ2-3日寝ないで仕事を続けられると自信がある、歳をとったなーと思うのは空腹を感じなくなった事である。2日前に冷凍の中華まんじゅうを2個食べただけで,お腹が空かないのはダイエットに好都合と喜んでいた。記事を書いている最中、又はパソコンの修理に取りかかっている最中に、料理でもしたら、せっかく頭に浮かんだ良い表現が、又修理方法がすっ飛んでしまうと怖くてデスクを離れられない。インターネットの問題が解決し、もしあるとしたら「パソコン・ハイ」と云う、マラソンのランナーズ.ハイに近い高揚した気分で、昼食と取ろうと自転車で出かけた。交差点でタクシー2台が信号待ちをしていた、その横を抜ける積りが、突然失神して、一台のタクシ-の助手席側の窓に倒れ込み、サイドミラーに頭を突っ込んで、ミラーを壊してしまった。タクシーには乗客はいなかったが、驚いた運ちゃんは、大声で、俺の所為じゃない、アンタがいきなり、倒れ込んできたと怒鳴り始めた。3日間何も食べずに徹夜仕事をしていて、低血糖,低血圧、低体温(35度)になったと説明しようと思ったが、面倒なので「貧血症なもので、ごめんなさい」と謝った。運ちゃんはサイドミラーが壊れたから警察に行こうと言い出した。私はぶつけた胸がひどく痛むので、その前に病院に行きたいと言い、ぼやっとした頭で,うっかりセーターをめくり上げてしまった。すると運転士が息を呑んだ。倒れ込んだ勢いで、ブラが外れてしまい、皮下出血で真っ青になった右胸がブヨーンと(断りを入れるが、ダラリではない)出てきた。この真っ青になったおっぱいの威力はすごく、運転士は「そ、そ、そんな気絶するような病気の人が自転車なんかに乗るな!」と解放してくれた。事故のショックで食事どころではなく,家に戻った 地震前の一週間は毎日明け方まで仕事をしていて、朝3-4時頃震度2-3の地震が続いた。これは大きい地震の前触れかもしれない。食料の備蓄が少なくなったので買い出しに行かなければと3月11日に買い物に出かける用意をした。今度はしっかり、朝食を取り、ビタミンのサプルメントも飲み、喉の為に濃い緑茶も用意して、自転車で出かけた。門前仲町から大江戸線で御徒町まで17分位で着くが、私はその週小さな地震が何度も続いたので、地下鉄は避ける事にした。 日本橋まで行き、昭和通りを辿って行けば、御徒町まで真すぐである。右側に御徒町の多慶屋というディスカウント店の派手なビルが見えた、 その時、大地震の第一波がきて、自転車ごと、歩道の端の植え込みの上に投げ出された。この植え込みは50センチ位の植木で、密に植えられてある、まるでマットレスの様に私の体重を支えた。ところが私は仰向けきに落ちた。足を地面に着こうとしても、余りにも密に植えられているので、足が踏ん張れない。手を地面に着こうにも、手を入れる隙間もない。歩道側に転がろうとするが、運のわるいことに、歩道側の古いビルから壁のかけらがバラバラおちてくる。仰ぎ見ると、窓ガラスを止めてあるパテのようなものも落ちてくる。ガラスが落ちてくるのは時間の問題だ。落下物は大きくても、小さくても落ちる速度は同じだ、マンションの5階位から植木鉢を落としたりすると、重力は7倍?位になるから、落下した窓ガラスは凶器になる等とうら覚えの知識を頭で反芻した。反対側の車道側の上は高速道路である。地震の揺れでバランスを取り損なった車が壁にぶつかり,車の軋る音も聞こえる。阪神大地震の時のように高速道路が崩壊するのか、どちら側に逃げた方が良いのか? それにしても、私の格好は非常にブザマである。まるで亀の様にひっくり返って手足をばたばたさせている。こんな状態で上から落ちたガラスに刺さって死んだとしても笑われるだけである。ガラパゴス島の陸亀「ロンサム.ジョージ」(100歳位、この種として生き残った最後の一匹で,ひとりぼっちのジョージと呼ばれる)がひっくり返って、元に戻れず死んだら、世界中の同情と関心を集めるであろうが、私が死んでも誰も同情してくれない。英国の亀専門の女性動物学者に会った事がある、陸亀の生活は単調であるという、サボテンを食し、セックスをして、寝るだけのパターンであるという。この学者に「ジョージは哲学者のような風貌をしているけれど、100年もセックスしたら飽きないのかしら」と聞いたら、2008年このジョージに近くの島の若いメス陸亀を嫁入りさせたが、生まれた卵は全て無精卵であったと語った。昨年米国の雑誌の記事で、米国で最も惨めな死に方をしたのは、美食家(エピキュリアン)の集まりで小蛸を生で食して、噛み切れず、飲み込んだ小蛸の吸盤が気管支に張り付き窒息した男性であった。女性は帝王切開を2度して子供を産み、脳梗塞で亡くなった人であると云う。地震の時、植え込みに仰向けに投げ出され、抜け出せず、上から落ちてきたガラスに突き刺されて死ぬというのも結構惨めな死に方だと思うのだが。とにかく、私はどうしたら抜け出るか考えなくては! もうこうなったら、格好など構っていられない。そこで、肩甲骨と腰を使って,一昔前のギャグの「カユイの!カユイの!」とイモムシのように背中で這う事に決めた。このやり方は効果があり、少しずつであるが、前に進む。遂に植え込みの中に生えている銀杏の木に辿り着いた。その木にしがみつき、自分の足で立つ事が出来た。立ち上がったときは地震の揺れはほぼ収まり始めていた。私は地震の一番凄い揺れを植木のクッションの上で受け止め,結局揺れを感じなかったと云ってよい。 揺れを屋内にいて感じた人とクッションの良い植込み上にいた人との恐怖の温度差は大きかった。私は諦めきれずにアメ横に向かい、買い物を始めた。どの店も、店員たちが怖そうに店の外に立っている。商品を手に取り、支払いをしようとすると、かなり大きな余震がきた。男性店員が顔色を変え,怖いと云って逃げ去った。職場放棄である。次の店でも中に入ろうとすると、陳列棚の油瓶や調味料が床にこぼれ落ち、滑って怪我をした店員もいるので中に入りたがらない、そのうちユサッと揺れが来ると客を放ったらかしで逃げてしまう。最初の地震でよっぽど怖い思いをしたのであろう。結局何も買う事が出来ず、自転車で戻る事になった。先ほど私が植木の上でもがいていた歩道は落下してくるガラスが危険だと警察官が黄色のテープで通行禁止にしていた、落下してきたガラスが一面に散らばっていた。私が脱出したのは間一髪だったかもしれない。 自宅の方に戻ってきて、地区によって揺れが違う事が分った。私の投げ出された御徒町あたりは地盤がかなりゆるい,妹の事務所は湯島天神の近くで凄く揺れたと云う。医書出版会社を経営しているので、印刷したばかりの医者や介護士などの為の教科書が棚から飛び出し、大げさにいうと教科書やノートパソコンが空中を飛び交っていて、すごく怖かったと云う。 上野から、秋葉原にかけて、歩道は早期退社する勤め人で一杯であった。もう地下鉄も、JRも電車は止まっている。バスも運行していない。地下鉄で来ていたら、帰宅難民になるところであった。私は歩道が一杯なので、車道を行く事にした。車道の方が上から落下する、ガラスや、看板を避ける事が出来る。すると若いサラリーマンが自転車でスイスイ行く私を見て、「そうだあれだ!」と自転車を買いに向かった。やっと永代橋まできた時は緊張が溶けて、涙が出てきた。しかし、隅田川では警察官がボートで、津波が来ます、早く離れて下さいと、拡声器で怒鳴っている。さて、これから自宅だが、どれだけ家の中がメチャクチャになっているか覚悟して家には入ったが、何も落ちていないし、倒れていない。まるで誰かが先に入ってきて片付けてくれたようだ。特に驚いたのは、ベッドの足元近くの台の上に大きなアナログTVが置かれ、その上にVTRが不安定に置いてある。その上にビデオ-テープがさらに乱雑に積んであった。毎晩寝る前に、今度地震がきたら、このVTRとテープが私の頭に飛んできて一巻のお終いだと思いながら就寝していた。驚いた事に不安定に置いたビデオ・テープはそのままで,動いた形跡すらない。一生懸命地震の形跡を捜したが、ワイングラスの飾り棚で、バカラのクリスタルグラス一つだけが横になっていたが、欠けたり,割れたりしてない。江東区や警察の広報車がきて、何回もインターフォンを押し、津波が来ます、早く避難場所に逃げて下さいと叫んでいる。明治の時代から建っている隣の東京海洋大学(商船大学)の5階建てのビルでも生き残っているのだ、自宅のマンションの屋上15階に駆け上り、隅田川とお台場を繋ぐ運河を遡ってくる津波を見学しようという覚悟を決めた。私はこのマンションを買う前に、隅田川の反対側のリバーシティの30階に住んでいた。35センチの長さの高性能の双眼鏡を買い、このマンションの建設状況を毎日観察した。川岸の為か,地下に掘り進むだけで一年を要し、基礎工事がしっかりしていると思った。その期間に近所で二棟の高層マンションが完成していた。私はこのマンションに思い入れがある。この土地は旧安宅産業の所有であった。救済に入った住友銀行の所有となった。フィナンシャル・タイムスに記事を書き始めた頃、安宅産業の経営危機に付いて記事を書いた。日本的な婉曲的表現で、安宅産業の売り上げはxxxx円に届かないかもしれないと書いたのだが、野心的な米国人の同僚が、これは大きな見出しの記事になると、勝手に安宅は絶望的と書き直し、自分の著者名を加えた。 すると1週間位してから住友銀行の頭取が私と同僚をお食事に招待したいと電話があった。そのときは安宅産業と住友銀行の関係は良く分っていなかった。頭取は非常にエレガントな人で,一般的な話をして、最後に部屋を出る時に、安宅の売り上げの数字の訂正をした。その後、この日本で10番目の商社が土地の投機の失敗で、倒産した。それから30年後住友銀行が安宅産業の倒産30年目を記念して(?)、安宅が所有していた土地にこのマンションを建てると云う。30年前の自分の安宅の記事に対する多少の自責の念と、銀行が30年前救済出来ず潰した会社の土地にデタラメのマンション建設はしないであろうと云う思いからこのマンションを求めた。 今度の地震で浦安の液状化が深刻だ。億ションという高層マンション40階からエレベーターで降りてきて、家族全員で高級車に乗り仮設公衆トイレに通うと云う。水道も、下水も、ガスもまだ使えないと云う。知り合いで日産のゴーン社長にスカウトされた凄腕の広報担当の女性がいた。彼女は浦安に億ションを買ったが、仕事で帰宅が遅くなり、食べる所も、コンビニも開いておらず、ポテトチップスだけで3日間過ごしたと云う(その後引っ越した)。これは私の抱いていた懸念だった。フィナンシャル・タイムスに勤めていた当時、東京駅からの最終電車1時10分に間に合う為に大手町の日経新聞ビルから猛ダッシュ、田町駅の芝浦口で、運がよければ大阪のおばちゃんがやっているオデン屋台で残っているものをビニール袋に入れてくれる。何も残っていない日はオデンの汁を袋に貰い、家でうどんを茹でて、夕食とした。月給200万円稼いでいても,私は飢餓状態であった。当時バブル時代で、私のマンションはジュリアナとゴールドというディスコに挟まれていたが、ディスコはの大音響は私の腹を満たしてくれなかった。私自身浦安まで新築マンションの見学に行ったこともある即、これは芝浦と同じ飢餓を味わうと感じた。私の生活パターンでは無理だと諦めた。 東京湾岸に住むには全く思いもしないリスクを背負う事となる。10年前エクソンのタンカーが羽田沖でオイル漏れ事故を起こした。4-5日した初夏の夕方、猛烈にガソリン臭い、下の駐車場でエンジンを吹かしている馬鹿がいると思い、怒鳴ろうと窓を開けた、ベランダはもっと臭かった。頭が痛くなり、眠れない。即座に近くのイトーヨーカドに行き、強力消臭機能付き空気清浄機を買って凌いだ。羽田沖で漏れた油がお台場辺りを漂い、海から陸に吹く夏の風で揮発したガスを運んできたのだ。近所のマンションの10階に住んでいる友人も、翌朝窓ガラスに油滴がびっしり付いていたと云う。エクソンの少量の油漏れでこれだけの被害だ。2003年北海道の十勝沖地震が起きた時、数日後に250キロも離れた奥地の苫小牧の出光の11の石油タンクが長周期振動と云う現象で1週間位燃え続けた。これは石油タンクの内容物が共振するスロッシングという現象で、石油タンクの浮き蓋が接触して火事を起こしたという。東京湾沿岸には川崎側に350以上の石油タンクがある、千葉側にも100近くのタンクがある、これらのタンクが浮き蓋を使っていないとしても、油漏れ、引火が起きる可能性は高い。地震が起きた時の風向き次第である。夏なら海から陸への風で、あのガスにやられるであろう。私は近所に住む友人と今度大きな地震が来て,ガスが流れてくる前に時間的余裕が少しあるであろう。とにかく自転車に乗り、東京駅に行き(10分位)、何でもよいから動いている電車に乗り、東京湾から離れるという計画を練った。彼女は長野に別荘を買った。石油タンクのスロッシングという現象は、遠くの地震(南海地震、東海地震)でも起き,揺れの強さは震源地と変わらないとないと云う。16年前の神戸大地震の時、前に住んでいた30階のマンションで明け方4時まで仕事をしていて、寝ついたばかりの5時頃、私のワイングラスの飾り棚がキンコンカンと天上の音楽のような美しい音色で目が覚めた。家中を調べたが、地震の兆候は無い。クリスタルグラスだけが踊っている。ニューヨークの編集部に、今オカルト現象が起きているとe-mailを送った。TVを付けても、即座には地震情報は出て来ない。クリスタルグラスが踊りだし、美しい音色を奏でたのが 長周期震動、スロッシング現象である。高層マンションに住むと北海道から、新潟、神戸まで全ての地震に共鳴してしまう。心が休まらないので、引っ越した。 もういい加減に引退して、田舎で静かに暮らしたらと云われる事が多い。私自身老眼になったら、引退しようと思っているが、パソコンで目をこんなに酷使しているのに、まだ老眼にならない。この20年朝食にスムーズィという緑黄色野菜ジュースを取っているからかも。ヨーグルトに、ラズベリー、ニンジン、トマト,赤ピーマン、リンゴ、バナナ、パイナップル等を入れる。全て冷凍してあるので、ピンク色のフルーツ・サンデーのようだ。コツはラズベリー(木イチゴ)を多くする、ニンジンやピーマンの味を消すからだ、疲れているときは大和イモをいれたり,クルミやエノキを入れる事もある。黒柳徹子さんはこれに納豆を入れると云う。茶色のどろどろした恐ろしげな飲み物で、黒柳さんが魔法使いのお婆さんの様にみえた。 終 柴田 |
![]() |