ジャーナリストのパソコンノートブック
(76)存続をかけて生き残りをはかる英国王室
(先月号より続く)

エリザベス女王は日替わりで報道される若い王室一員の秘密の暴露にうんざりしていた。かって王室の近衛騎兵隊の隊員ジェームス.ヒューイットが1998-1991年までのダイアナ妃とのセックスの模様まで明らかにした暴露本を出版した。  ダイアナと車のディーラーのジェームス・ギルビ--との自動車電話の会話の盗聴がマスコミに暴露された。そこではダイアナはスクイッジーと呼ばれており,マスコミはスクイッジー・ゲート(米国のウォーターゲート事件にかけて)と大騒ぎしている。盗聴電話の中で,ダイアナは女王や王室の人々をファッキング.ファミリーと下品な言葉を使っている。ヒューイットの暴露本に関して,ダイアナはBBC 「パノラマ」という番組に出演し、ヒューイットとの関係があった事をみとめている。その他,ラグビーの選手,画商,パキンスタンの医者などがダイアナの火遊びの相手として取り沙汰された。結婚した当初のダイアナには相談する相手,教育係がいなかった,ファッション関係者,ヘアーデザイナー,美容師などのいわゆる普通の女性達の取り巻きである。英国では階級によって読む新聞が違うというが,これら女性の読む新聞は
タブロイド紙の読者である。従ってダイアナはタブロイド紙的な思考をすると考えられる。彼女らが勧める世界中がため息をつくようなセクシーなイブニングドレスを着ても,ドレスに長いスリットを入れてスペンサー・レッグス(スペンサー家の女性は美しい脚線美を持つ)を見せても,チャールス皇太子は下品だといって、ダイアナに関心を示さなかった。ダイアナの取り巻きは,夫チャールスがカミラ・ボールズという昔のガールフレンドとの情事を続けるなら、妻も浮気して,夫の関心を取り戻せとアドバイスしたかもしれない。

「私の英国人のボスは日本にきてすぐ日本女性と浮気を始めた。ある時,日本の商社の広報マンが,「この英特派員の家のディナーに招待されたら、英国人の奥さんがご主人の目の前で僕の手を握り,さすってきた。どう対処したらよいのでしょう?」と聞かれた。私は「多分,ご主人に焼きもちを焼かせようとしたのでは,それは英国では夫に浮気された奥さんのとる常套手段だから,本気にとらないで」と答えておいた。英国人のボスはその後,離婚して,日本女性と再婚した。
    ダイアナが婚約した当初,王室のしきたり,マナーを教える為に教育係を付け細かい指導にあたったが、ダイアナは聞く耳を持たなかったし,集中力もなかったという。耳にウォークマンのイアーフォンを付けて,女官のアドバイスを無視したという。彼女にはどうしようもない旧態依然の王室を最初から受け入れる気が全くなかった。ダイアナは多くの同年代の女性がやる様に,スポーツジムに通い、義理の妹サラと一緒にクラブに踊りに出かけたり,アロマテラピーに出かけたり,あやしげなギリシャのマダム・ヴァッソ・コ―テシスという占星術師,心霊術師を訪ねたりしていた。このオカルト導師は義理の妹サラがアンドリュー王子との離婚の相談を録音してあり,それを本にして出版しようとしていた。そのテープには多くのセックス相手との情事を得意げに語っており、公衆電話で2-3ポンド払えば,その本のさわりは聞く事が出来る。英王室はこの本の出版をなんとか差し止めた。あるときウインザー城に修理に入った男が、サラがテキサスの石油王と日光浴しており、アンドリュー王子とサラの間に出来きた幼い王女がテキサスの裸の男の膝の上に座っている写真を洋服ダンスの上で発見、暴露した。堪り兼ねた女王は離婚をアンドリュー王子に離婚を迫った。1992年ウインザー城が火事に見舞われた,世界で一番金持ちと云われた女王は火災保険をかけていなかった。時の内務大臣は城の修理費6千万ポンドを国庫から払うと発表したが,英国の新聞は国民の多くが景気低迷で苦しんでいる時,女王は所得税を払っていない、国民に修復費用を全額負担させるのかと問題提起した。サンデータイムスなどの新聞は若い王室の連中が特権を目一杯利用して遊び回っていると批判している。女王は国民の批判をかわす為に,所得税の支払いに応じた。女王の所得税免除には歴史的背景がある。王位放棄してフランスに追いやられた叔父のウィンザー公は吝嗇で知られていた。ウインザ--公は「自分が本来王様として使うはずのサンドリガム宮殿,バルモラル宮殿の賃料を王位を継いだ弟のジョージ6世に請求した。宮殿の使用料を払うとジョージ6世には生活費も残らなかったという。現在アカデミー賞最優秀賞の候補に上がっている「英国王のスピーチ」は、突然国王の大役を引き継いだジョ--ジ6世の吃音克服を描いた映画である。時の首相ディレズリーはジョージ6世を助ける為に,こっそり所得税を免除した。娘のエリザベスが戴冠式を迎えたときも,ウインザー公はまだ存命であったので,城の利用料を払い続ける代わりに、所得税は引き続き免除されていた。女王一家は夏の間サンドリガム宮殿やバルモラル宮殿に滞在するので,バッキンガム宮殿は使わない、宮殿を一般公開して、観光収入で焼けた城の修理費を払ったという。女王は節約家で暇があればバッキンガム宮殿の部屋の電気を消し回っているとダイアナ妃に嫌われている。ウインザー城の火事から4日後にエリザベス女王は即位40年を記念する昼食会で演説した。この演説は“Annus Horrible” (ラテン語で恐ろしい1年)演説と呼ばれることになる。1992年はウインザー城の火事,息子夫婦の不和など悲惨な事が続いた,さらに女王の国への40年の奉仕が国民に理解されなかった事がつらかったという意味を含まれている。チャールス皇太子は女王の演説の翌日別居を決意した。エリザバス女王はダイアナの影響力は王室の存続も揺るがしかねないと早く消し去りたかった。ダイアナは常に何か企んでいた。チャールス皇太子がダイアナの誕生日パーティを計画しても,わざと出席しなかった。翌日タブロイド紙に悲しそうな顔をしたダイアナ妃の写真入記事が「子供達だけで祝った寂しい誕生日という」見出しで掲載された。ダイアナの父親スペンサー伯爵が亡くなった時も、チャールスが一緒に葬式に行こうと用意したヘリコプターも断って,子供達だけと寂しく見送りするダイアナ妃という記事を掲載させた。後で分った事だが,ダイアナは結婚以来一度も父親のもとを訪れていない。チャールスを一方的に悪者にする作戦に出ていた。

  ダイアナが離婚後一人で訪日した折,彼女はミニスカートから美脚を惜しげもなくさらしていたが、それは日本の新聞記者には余りアッピールしなかったみたいで,中には「ナーンだ,ダイアナはただの英国ネーチャンじゃないか」と云う声が聞かれた。何となく安っぽく見えた。ダイアナ妃が美しく輝いて見えたのは,プレーンの白シャツにチノパンという姿でアンゴラの危険地帯を対人地雷探査機を持って歩いた時だ。彼女は歴史上誰よりも写真を撮られている。彼女はマスコミのカメら攻勢は一生避けられない事を逆手に取った。対人地雷危険地帯を歩く勇気ある姿,病院に被害者を見舞う姿は世界中に報道され,注目を集め、地雷の国際的禁止圧力となった。彼女は慈善事業に生き甲斐を見附ようとしていた。慈善団体のパーティも彼女が出席する事で義援金が集まるので国内海外を問わず積極的に出席した。1996年8月に正式に離婚が決まり,ウインザー王家の離婚組(マーガレット王女,アン王女,アンドリュ―王子)の仲間入りした。  離婚後も、ケンジントン宮殿の使用が許され,2千8百万ドルの手当を現金や不動産で手に入れた。ダイアナは各種の肩書き(プリンセス・オブ・ウエールズ・ダイアナをなど)を保持出来る。これは離婚後ヨーク公夫人というタイトルを失ったサラとは対照的だ。  離婚したらマスコミから忘れ去られるという女王の思惑ははずれ、ダイアナはさらに羽ばたいた。東奔西走するダイアナはかってより若く,輝いて見えた。
      この頃になるとダイアナは美しいドレスを身に着けお化粧をしても空しく,何人かの男性と付き合ってきても,彼女の肩書きを利用しようとする男性ばかりで内面的な満足を得られない事に気がついた。ある時、ウイリアム王子がワードロープの中に詰まっている3000着もの舞踏会様のドレスを処分して、オークションでの売り上げをエイズや難病の治療に寄付したらどうかと云う提案をした。1997年7月NYのクリスティーズ」のオークションで彼79着の夜会用のドレスが競売にかけられ326万ドルの収益が上がった。
      運命のいたずらかもしれないが、ダイアナのパリの事故死は関係者の欲と思惑で起こされたという気がする。ダイアナには出奔した実母の後に,父が再婚したレインという継母がいた。この継母がちょこまか良く動き回る女性で,彼女はダートマス卿と離婚し,ダイアナの父オートレップ伯爵と結婚し,念願のスペンサー伯爵夫人のタイトルを手にいれた。ダイアナの父の死後,1993年にフランスの貴族ジャン・フランソワ.ピネトン。デュ・シャンブラントと出会い三回目の結婚をした。1997年頃には離婚して優雅な肩書きが残った。レインはちょうどその頃ロンドンの高級デパートのハッロズの役員に任命された。ハロッズはエジプト人のオーナー,モハメッド・アルファイド所有の世界最大で,最高級のデパートである。彼はパリのリッツホテルも買収しており、故ウインザー公のシャトーも管理していた。しかし、アルファイドは余りにも評判が悪かった,彼の妹はアラブの武器商人カショーギに嫁いでいる。不正買収、経歴詐欺,国会議員に金をばらまき、そしてあらゆる訴訟に巻き込まれていて英国で一番嫌われている男である。英国人がひいきにしていたハッロズがエジプト人に乗っ取られたことで英国人の誇りは傷つけられた。特に貴族社会や王室から毛嫌いされてきた。アルファイドはこの20年間毎年英国国籍を申請したが毎年却下されてきた。英国人には面と向かって聞くとそんな事は無いというが、昔からエジプト人やパキスタン人などを軽蔑してWOGという呼び方があった。始めて英国に行った時はWOG という侮蔑語をよく耳にし、下層階級の男達がパキスタン人やエジプト人を殴ったり,蹴ったりしているのを目にした。 WOG の語源はWesternized Oriental Gentleman (西洋化した東洋の紳士)で、英国の植民地時代,インドから英国に向かう客船 (P&0 line)で,インド,パキスタン,エジプト人の中で西洋化した上流の人達の乗船を認める事があり、乗船名簿にWOGと記したと云われる。それが後に人種偏見,軽蔑語として使われる事が多くなった。英国は凋落したとはいえ、アルファイドのような成金を軽蔑するところがある。しかし、ダイアナは現代っ子であり,英国の古い人種偏見には反発する。以前にもロンドンを拠点として活躍中のパキスタンの心臓外科医ハスナット・カーン医師と付き合いがあり,一時は結婚すると噂された。
    ダイアナの継母レインはハロッズの初仕事として勇み立ってアルファイド氏がダイアナと二人の王子を豪華ヨット「ジョニカル」で地中海クルーズに招待する事を提案した。ここでレインの思惑はアルファイドの野心に火をつけた。アルファイド氏は密かにダイアナと息子ドティを結びつける計画を練っていた。万端の準備をし,米国から息子のドティを呼ぶ寄せ,地中海でのもてなしにあたらせた。ダイアナと二人の王子がジェットスキーをしたりするパパラッチの写真は世界中の新聞・雑誌に掲載された。慌てたのは英国王室で,女王の許可なしで王子を海外に連れ出す事は許されなかったし,アルファイドの招待を受けるのは英国にとって背信行為に近かった。41歳の息子のドティはハリウッドで映画製作をしていたが,遊び人として知られており,ゴシップ欄に乗る事を生き甲斐としていた。父親は彼に毎月10万ドルの小遣いを与えていた。ドディは父親の所有するスコットランドの4万エーカーという広大な土地でシカ狩り,城も利用出来た,スイスのスキー場にシャレーを持ち,ニューヨーク,ドバイ、仏サントロペ  やイタリアにも豪邸があり,車もフェラーリ数台,ロールスロイス,ヘリコプター、ガルフストリームのジェット機,父親のご豪華ヨット「ジョニカル」も使う事が出来た。ドディがアメリカから戻ってきた時は、米国のファッションモデルを同伴してきた。彼女はドディを婚約不履行で訴えており、記者会見もしている。父親アルファイドはドディにハッパをかけて。ダイアナが義理の娘となってくれたら,一向に振り向いてくれない,英国王室への最大のしっぺ返しになると目論んでいた。ダイアナが白人以外の男性と結婚に繋がるかも知れない恋愛をしている事に,王室は激怒した。ドディのボディーガードのトレバー・リース・ジョーンズによれば、いくら綿密なパパラッチ回避対策を練っても、情報が漏れてしまったという。父親のアルファイドはわざと情報を漏らし、写真を撮らせ,息子とダイアナが恋人同士であるという既成事実を世界に知らせようとしている意図があったという。8月の終わり,ダイアナとドティはヨットで,イタリアの島々をクルーズし,休暇の最後をパリのレストランで食事する予定であったが,リッツホテルの前には50人近くのカメラマンが待ち構えていた。ボディガードのトレバー・リース・ジョーンズによるとドティは頻繁に計画を変えた,レストランをキャンセルし,ホテルで食事をすることにしたが、ふたたび計画を変え,ドディのアパートに戻ることにしたがカメラマン達はなかなか諦めない。深夜12時頃ダイアナ一行の陽動作戦が実施された。グリ--ンのレンジローバーとおとりの黒いベンツがホテルの裏口からヴァンド―ム広場に向かい一周して駐車場に戻った。その間に2台目の黒塗りベンツ2080がダイアナ,ドディ,リ―ス・ジョーンズを乗せ裏口から出た。運転手はアンリ・ポールであった。アンリ・ポールは非番で酒を飲んでいた。猛スピード地下道に入ったところでなんとかパパラッチのオートバイを振り切ったが、一台のリムジンが低速運転をしていた。ドティは追い抜けとせかした。追い抜こうとしてコントロ―ルが効かなくなり,車はコンクリートの支柱に激突し,空転し,鉄くずの様になった。ポールとドディは即死状態,ダイアナの左肺がちぎれており,静脈も切れ,なんとか彼女を生かそうと看護婦が直接心臓にアドレナリンの注射を150本も打ち込んだという。  リース・ジョーンズは数週間昏睡状態が続き,事故の記憶を失った。完全に破壊された彼の顔は,パリ屈指の外科医チカーニ医師によって何度も手術が施され,復元された。事故後のアルファイドの行動は素早かった。事故の直前白いフィアット・ウノが接触していたと主張した。塗料や現場に落ちていた破片から1983年から1987年8月までに生産された車と分ったが、持ち主は名乗り出なかった。仏司法当局もベンツとフィアット・ウノの接触は認めた。  アルファイドはこの事故は英国諜報機関M16によって仕組まれたものだという陰謀説を公言してはばからなかった。インターネットを通じてこの陰謀説はアラブ圏内で猛威をふるっていた。  将来ダイアナの息子ウイリアムが王位に付いた時、イスラム教の兄弟がいる事は英王室にとって脅威になるというのが,王室が陰謀の一端を担っている事になる。アルファイドはエリザベス女王の夫君フィリップ殿下が黒幕だと主張した。  運転手のアンリ・ポールが飲酒も、リッツの従業員は固く口止めされていた。飲酒していたとすると,彼を運転手に指名した息子のドティの責任,リッツホテルが賠償する事になる。  リース・ジョーンズも最後までアンリと飲酒について口を閉ざしていたが、事故直後警察官が彼だけがシートベルトをしていて助かったと発表した。アルファイドは陰謀説が証明されそうもないのでボディ・ガードのリース・ジョンズの職務怠慢だ、自分だけシートベルトを付け,皆に注意しなかったからと責任を彼に押し付けてきた。後に彼の命が助かったのはエアーバッグのおかげであり、シートベルトは付けていなかった事が判明した。アルファイドは息子ドティが20万5千400ドルするダイアモンの結婚指輪をパリの宝石商アルベルト・レポッシュに注文したと言い張り、トレバー・リース・ジョーンズにダイアナとドティが旅行中どこか宝石店に立ち寄らなかったか、婚約指輪を求めなかったかアルファイドにしつこく尋ねられたという。この指輪は後にハロズの店頭に飾られる事となった。見に行ったが,趣味の悪いハート形の飾りで囲んであった。
      ダイアナの死で普段沈着な気質の英国民がラテン化してしまったと思われるぐらい感情的になった。英国人自身英国的でなくなった事に驚いている。英国民はヒステリー状態にあった。ダイアナの死に掲げられた花は130万トンに達した。女王に哀悼の言葉を求め,バッキンガム宮殿に半旗を掲げる事を  求めた。王室は半旗を掲げると発表し,女王が哀悼のスピーチを行った。チャールスは生まれて始めて母親に逆らって、パリに飛び,ダイアナの遺体を引き取りに行った。しかしダイアナの死後1年たったころから、ダイアナ批判が出始めた。「神話に終止符を打つべし」、「王室の一員として役割を理解せず,王室,家族,子供達,自分自身を傷つけた」,「子供っぽいセンチメンタリスト」などである。
ダイアナの死で,王室は変革を求められている事は確かである。女王は金のかからない「小さな王室」を目指しているという。

    終   柴田



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