ジャーナリストのパソコンノートブック
(75)存続をかけて生き残りをはかる英国王室
   英国王室のウイリアム王子とケート・ミドルトンさんが婚約発表会見をみて、母親の故ダイアナ妃の死がもたらした王室の変革の流れを感じ取った人が多いと思われる。王位継承者の結婚相手は王族でも、貴族でなくてもよいと変わった。ケート・ミドルトンさんは平民である。結婚式の費用は英王室とミドルトンさんとで折半するなど、チャールス皇太子とダイアナ妃の結婚式と隔世の感がある。 しかし、その直後チャールス皇太子とカミラが乗った車に学費値上げに抗議したデモ中の大学生に卵や石を投げつけるという事件は故ダイアナ妃が英王室にもたらした置き土産、または彼女の復讐かもしれない。故ダイアナ妃はタブロイド紙を利用して王室の実情を暴露し,彼女自身も多くの男性と浮気し,恋愛スキャンダルは新聞を賑わせた。しかし、ダイアナ妃が持ち込んだ開放性とか庶民性は英王室の神秘性を失わせた。王室が庶民性を進めれば、国民は我々と変わらぬ人間がなぜ王室費とか宮殿維持費を国の予算で払うのか,スキャンダルまみれの王室が税金を免除されてよいのかという疑問を持つ様になる。ウイリアム王子が国王になる頃には英国王室は政治的、宗教的役割を持たない北欧型の国王になるのではないかと思われる。

   私が英国の新聞の東京特派員事務所で働いていた頃は、英国のチャールス皇太子が世界で一番人気のあるプリンスで、日本の頭がいかれた女性から、チャールス皇太子と付き合っていて彼の子供を妊娠したなどという手紙を毎年受け取った。英国大使館の広報部の友人に電話してきいたところ、このようなおかしな手紙は毎年春先に多くなったという。しかし、英国の友人達はチャールス皇太子の顔はドイツの血統が強く出ていて「such an ugly man」(なんて醜い男)と云う(特に第二次大戦でドイツと敵対した為,ドイツ嫌いが多い)。現在の王室,ウインザー家はドイツ系だ。初代ジョージ1世(1714?27)はドイツのハノーバ?家の出身で、英語もろくに喋れなかったという。エリザベス女王の曾祖母のビクトリア女王の最愛の夫君アルバート公はザックス.コバーグ.ゴーダというドイツ人貴族であったので、血統的にさらにドイツ的になった。ビクトリア女王は9人の子供をもうけ、ヨーロッパの王家、スェーデ、ロシア、フランスの王家と婚姻関係を築いた。長女はドイツの皇帝フリードリッヒ、次女はヘッセン皇太子に嫁がせ、次男の嫁にロシア皇帝のアレクサンドル二世の娘、三男の嫁にプロイセ公の娘を迎え、孫の代には」ノールウェイ王、ルーマニア王、ギリシャ王、さらにロシア皇帝、スペイン国王など、ヨーロッパの王室とつながりを持ち、 晩年はヨーロッパの王家の祖母と呼ばれた。王位継承者ジョージ5世(1895-1936)はドイツの有力貴族の娘と結婚、さすがにこの時ばかりは英国王室にドイツ人の血が濃くなりすぎると反対する声が高かったという。ジョージ5世時代にドイツを敵とする第一次世界大戦が起き、あまりにもドイツ色の強い英王室は困った立場に置かれた。そこで、ジョージ5世はドイツ的な家名を英国風に改名し、ジョージ5世のドイツ人の王妃の名前はただのメアリーになった。王朝もハノーバー王朝から、「ウインザー王朝」に変えた。それまでの王族は王族としか結婚出来ないという通婚政策も、ジョージ5世は王族が臣下と結婚してもよいことにした。この通婚政策の変更を受けてジョージ5世の次男(後のジョージ6世)は1923年スコットランドの名門貴族の娘と結婚した。
   英国王室の衰退のきっかけはジョージ5世の長男エドワード8世(ウインザー公)の1936年の王位放棄から始まったといわれている。ジョージ5世が亡くなった時、長男のエドワード8世が王位を継承した。エドワードは皇太子時代「プリンス・チャーミング」と呼ばれ、世界一Eligible (エリジブル:望ましい独身男性)と云われただけに、多くの女性と浮き名を流した。彼のお相手は男性経験の豊かな年上の人妻が情事の相手の場合が多かった。特に自己主張の強いアメリカ女性に弱かった。王位を継承したエドワード8世は独身であったが、2回の離婚歴を持つ、アメリカ人女性、ウオーリス・シンプソンとの結婚を望んだ。                  
  ウォ?リスは21歳で海軍士官と結婚したが、最初の夫は酒乱で、バイセクシャル(両党使い)であった。夫はウォーリスを香港の高級娼館に連れていき、中国の伝統的閨房術を学ばせたという(英国の特務機関の調査報告書)。ウォーリスはユダヤ系の商人アーネスト・シンプソンと出会い、ロンドンで再婚した(1928年)。1929年のアメリカは大恐慌だが、ロンドン社交界はエドワード皇太子を中心としたローリング・トウェンティーズ(フォオクススロットやルンバなどのダンスに明け暮れる狂乱の20年代)であった。当時エドワード皇太子のお気に入りの相手はアメリカ出身テルマ・ファーネス卿(英国の汽船会社オーナー)夫人で、彼女はピッツバーグ名門出身、最初の結婚はベル電話会社創始者の孫であった。テルマの双子の妹グロリアは大富豪ヴァンダ?ビルトの御曹子である。テルマはフォート・ベルベデーレの屋敷を皇太子の為に改造して同棲同様の生活を送っていた。野心的なウォーリスはテルマに取り入って、エドワード皇太子と出会うことが出来た。テルマと皇太子の付き合い方から、ウォーリスは、皇太子がわがままな強い女性に支配されることに喜びを感じるタイプであることを見抜き、二人きりになった時、思い切り高飛車に出て成功した。ウォーリスは香港で学んだ中国の閨房術を駆使してテルマから皇太子を奪い取り、皇太子は彼女の云うがままになった。皇太子は1934年外遊にウォーリスを同伴している。父親の国王ジョージ5世はウォーリスを毛嫌いして、祝賀パーティーなどに呼ばないよう苦心したが、皇太子は平然として彼女と一緒に現れた。国王が重体になった1936年、母親のメアリーは王室に伝わる宝石類をシンプソン夫人に奪われないよう、皇太子の妹などに分け与えるように遺言状を書き直した。1936年1月国王が逝去し、国王エドワード8世が即位した。エドワード8世は父親の遺志でほとんどの相続から完全に閉め出されて激怒した。ウォーリスの宝石好きはエスカレートし、エドワードは百万ドルを超える宝石を贈ったと云われる。翌年の戴冠式を控え国王は政府から王族と離婚歴のある女性の結婚は許されない、ウォーリスとの結婚をあきらめるか、退位するか迫られた。いわゆる、「王冠か恋か」の選択で、エドワード8世は王冠を捨てた。 12月11日BBC放送は国王の退位の声明を全国に放送した「愛する女性の助力と支えなしでは国王の任務を全うできない」。年取った英国特派員に聞いた話だが、当時,英国の新聞はエドワード8世とシンプソン夫人の恋愛を一切報道しなかったので,突然の王位放棄の放送は英国民にひどいショックを与えたという。
  エドワード8世の思慮に欠けた行為で、弟のヨーク公が突然ジョージ6世として王位を継ぐことになった。廃位となったエドワード8世とウォーリスはフランスに移り結婚式を挙げ,それ以降ウインザー公と呼ばれる。英王室、母親のメアリー王太后、ジョージ6世の王妃エリザベスはウインザー公を許しはせず、絶縁状態が1952年ジョージ6世の葬式まで続いた。ウインザー公夫人ウォーリスは一生「ハー・ロイヤル・ハイネス」(妃殿下)と称号を許されることなく1986年亡くなった。
  突然王位を引き就いたジョージ6世は国王になる為の教育は全く受けてなかった。身体的にも、精神的にも弱かったジョージ6世を第二次大戦中助けたのは王妃エリザベスであった。彼女はドイツの空爆にもめげず、バッキンガム宮殿に防空壕を堀り、疎開をしなかった。彼女はごく最近(2002年101歳で崩御)までクイーン・マザーとして英国民に慕われた。ジョージ6世には息子がいなかった為、長女のエリザベスが王位継承者となった。エリザベスは13歳の時後の夫君フィリップと運命的な出会いをする。父親と一緒にダートマス王立海軍士官学校を訪問した時出会い、好意を持ち、彼女が20歳になった時求婚された。フィリップはギリシャ国王の王子とビクトリア女王の曾孫アリス・バッテンバーグの間に生まれた。クーデターにより7歳で渡英、母方の祖母に育てられた。最初はドイツ風の家名バッテンバーグを名乗っていたが、母方の姓のマウントバッテンに改名した。エリザベス女王の荘厳な戴冠式は1953年に行われた、27歳の時である。女王として玉座についたエリザベスに夫のフィリップ殿下がひざまずき、下僕としての忠誠の誓いをした。このロイヤル・コンソート(女王の配偶者)の立場は屈辱的で、かなりの忍耐が必要なようで、女王はフィリップ殿下とマウントバッテン家から家名をマウントバッテンに変えろと執拗な要請を受けたようだ。エリザベスは祖父のジョージ5世が創設したウインザー家の姓を捨てる決心がつかなかった。1960年、女王は妥協案の声明を出した。「私と私の子供達はウインザー家の一族と呼ばれ、その家名を継ぎ、プリンス並びにプリンセスとして、ロイヤルハイネスの称号や待遇を受けるものとする。そして女子の子孫が結婚する場合、その子孫はマウントバッテン-ウインザー家の家名を使う」。驚いた事に先日婚約を発表したウィリアム王子の正式の名称はWilliam Mountbatten-Windsor of Wales とフィリップ殿下(マウントバッテン家)の希望がかなえられている。果たして、ウイリアム王子は王位に就いた時、King Mountbatten(マウントバッテン王)と呼ばれるのか、King Mountbatten-Windsorと呼ばれるのか興味深い。
  女王は王位を継承すると同時に英国国教会の主教となった。これが妹のマーガレット王女の人生を狂わせる事となった。国教会の主教として、女王はマーガレットとピーター・タウンゼント大佐との結婚を許さなかった。彼が離婚経験者であった為だ。英国国教会はシンプソン夫人が離婚経験者であるという理由で、エドワード8世の王位継承を許さなかったという前例がある。恋に破れ,傷心のマーガレット王女にアンソニー・アームストロングージョーンズという王室カメラマンが現れた。女王はアンソニーにスノードン子爵という称号を授け、二人は1960年に結婚したが、1974年に離婚している。ある時東京の外国特派員クラブで飲んでいたら、バーカウンターの隣に座っていた人がスノードン公で驚いた事があった。渋くてハンサムな人であった。エリザベス女王はマーガレットとスノードン公の間に出来た子供二人を引き取って自分の子供同然に育てたという。妹の結婚に就いては責任を感じていたのであろう。
   英王室が生き延びてこられたのはエリザベス女王が政治的権限を譲歩したおかげだと歴史家は語る。1956年エリザベス女王の国家元首としての地位を揺るがす事件が起きた。当時エジプトの新首相ナセルがスエズ運河の国有化を発表した。運河に利権を持つ英国とフランスはある作戦にうって出た。最初にイスラエルにエジプトを攻撃させておいて、途中で英仏が介入するという案であった。攻撃が実行されるまで、エリザベス女王は何も知らされておらず、イーデン首相のイラクのファイサル首相歓迎夕食会に出席していた。英、仏、イスラエル対エジプトの戦争は「スエズ動乱」と呼ばれ、行き当たりばったりのひどい作戦で、エリザベス女王はなす術がなかった。英国が世界の覇権を失う象徴的事件で、米国に解決を求め、米国が世界の覇権を握る様になった。
  次の象徴的事件は,1963年死期が迫りつつあるマクミラン首相を女王が真夜中見舞いに訪れた。マクミランは自分の後継者にダグラス・ヒューム伯爵を指名するよう、有力な候補者バトラーを指名しないように女王に頼みこんだ。女王はヒュームを宮殿に呼び、第14代首相指名した。マクミランのこの行為は女王の首相を選任するという大権を奪ったということになる,憲法上問題があると非難された。それ以来女王は首相の任命には関わらなくなった、政治的ゴタゴタに巻き込まれたくなかったからである。
  1979年 チャールス皇太子が父親より慕っていた大叔父のマウントバッテン卿(海軍総督)がアイルランドのドネゴー湾で休暇中、IRAが仕掛けた時限爆弾で命を落とした。一番ショックを受けたのはチャールス皇太子であった。ドイツ人であるマウントバッテン卿には野心があった。王位の継承者の性格に影響を与え、チャールスを意のままにする事であった。究極の目的はマントバッテンの家名がウインザー家と並列されることであった。マントバッテン卿はチャールスが週末ガールフレンドと過ごせるように、館を提供した。70年代からチャールスの心を占めてきたのはカミラ・シャンドンであった。二人は英国のカントリーライフの魅力や、乗馬、狩猟という共通の話題があり,気があった。しかしチャールスは24歳、年貢を納めるには早い。彼女の家柄は貴族でないので反対される心配もあった。 チャールスをあきらめ、カミラは1973年王室要員のアンドリュー・パーカー・ボールズと結婚した。 チャールス皇太子は結婚を先延ばししてきたが,次々と世界中の女性と付き合い、放蕩であったエドワード8世(ウンザー公)の再来とまで云われた。私の知り合いの英国マーチャント・バンクの東京支店長の奥さんは,貴族出身の美人で, チャールス皇太子に追いかけられたという,ご主人の方は皇太子に遊ばれる前にと慌てて結婚したという。何も知らない私はこの夫婦を含め、英国の銀行家達を赤倉にスキーに連れていき,民宿に泊めた。その民宿には別のグループで英国大使館の人達が泊まっていた。民宿であるので大きな共同温泉風呂があった。この銀行家達は英国大使館員をシビル・サーバント(下級役人)と呼び,彼らの垢が付く前に、風呂に入ろうと階級意識丸出しであったのを思い出す。
   英王室は皇太子のフィアンセは血筋が確か,スキャンダルがあってはならない,貞節な娘でなくてはならないという条件で若い女性を捜すが,困難を極めた。ダイアナ妃の姉のレディ・セーラー・スペンサーも皇太子のガールフレンドであったが、彼女の方から結婚を断っている。貴族の娘と云っても,処女の娘を捜すのは難しかった。当時,スローン・レンジャーズと云う写真小冊子を見た事がある。ロンドンの高級街、スローン・スクエアーの貴族の姉弟がパーティーでばか騒ぎする姿態を撮り、ニキビ面の若い男女が酔っぱらって、ほとんど半裸でもつれ合っている。女王の次男の嫁,セーラ・ファーガソンはこのグループの中心的存在であったという。 家柄がよく、貞節な娘を捜すには,ダイアナ・スペンサーのように16歳ぐらいまで,年齢を下げないと見つからないのである。ダイアナはスイスのフィニシング・スクール(花嫁学校)に送られていたので,無垢のままにいられた。

   スペンサー家は代々ロイヤル・ファミリーに仕えた古い貴族の家柄であった。ダイアナには二人の姉と弟がいる。彼女が6歳の時、長年不仲の続いた両親が離婚した。両親の離婚によりダイアナは精神的に不安定で、被害妄想的になった。姉がウイリアム・ビリー・フェローズという王室に仕える家柄の息子と結婚した。姉は小さなチャペルで結婚式を行ったが、ダイアナは「私のときはウエストミンスターですよ」と語ったという。彼女はそこで王室関係の記事で有名なジェームス.ウイットカー記者に話しかけ,自己紹介した。タブロイド紙とダイの長い付き合いが始まった。ダイアナはパーティでチャールスがマウントバッテン卿の葬儀で悲しそうに見える、皇太子の孤独感が分ると接近した。チャールスはダイアナがカントリーライフが好きな恥ずかしがりの小娘と勘違いした。エリザベス女王も後にダイアナが離婚で崩壊した家族で育てられた娘であり、情緒的に不安定で、作り話をよくする娘だともっと入念に調べるべきであったと語った。チャールスが付けた『シャイダイ』(恥ずかしがりや)は見せかけだけであった。彼女は自己主張が強く、性格が烈しく、田舎暮らしは大嫌いであった。婚約中であっても、チャールスは元彼女のカミラとの付き合いを止めなかった。ダイアナが夫とカミラの関係に気づいたのは結婚式の当日だという。「私達の結婚生活は3人で始まり,窮屈でした」とダイアナはタブロイド紙に語っている。
    しばらくして、ダイアナはウイリアム王子を出産した。エリザベス女王は赤ん坊がチャールスのように大きな耳を持ってない事に安堵したという。チャ-ルスは子供の頃異常に大きな耳の為に幼稚園でいじめられ、父親のフィリップ殿下は息子に耳の整形手術をうけさせようとしたという。ウイリアムとヘンリー王子の誕生で小康を得た感じであった皇太子夫婦であったが、夫チャールスは相変わらずカミラとの関係を続けている、それを止めるどころかロイヤルファリーは愛人を公認しているとダイアナは非難した。カミラの夫アンドリュー・ボールズは王室付きの騎兵隊の隊長であり、父親は王大后の昔からの友人でもある。王室との付き合いは切れなかった。ダイアナの女王への復讐が始まった。女王が議会のオープニングに臨席した際、ダイアナはショートヘアーで現れ、女王を霞ませた。二つの世界大戦で亡くなった人を弔うコンサートで、出席しないと通知したダイアナが女王の臨席より、20分遅れて出席し、自分ヘのマスコミの関心の高さを誇示した。厳かな集まりに自分中心の無礼な振る舞いをするダイアナを女王は「あの頭の痛い娘」と呼ぶようになった。彼女はアンドリュー・モートンに「ダイアナ:真実の物語」という記事を書かせた。旧家に嫁いで、重圧と無心家員夫の横暴に耐えているとダイアナに有利に脚色されており、窮地に追い込まれ、過食症や、鬱病を煩い、自殺未遂をしたと書かれている。3段ぐらいの階段でわざと転び、自殺を試みたと大げさに語り、誕生日にチャールス皇太子が用意したパーティーには出席せず、タブロイド紙には一人寂しく誕生日を迎えるダイアナ妃と云う記事を書かせている。ダイアナはマスコミを利用して、大衆を味方につけるというしたたかさを身につけていた。結婚当初のダイアナ妃の間違いはアンドリュ-王子(チャールスの弟)の妃、素行の悪いセーラ・ファーガソンとつるんで遊び歩いたことであった。星占い師を訪れ、相談事をテープに録音される事もあった。私はロンドンの高級会員制クラブ「アナベル」で二人のプリンセスに会ったことがある。普通のオネーチャンと云う感じであった。海軍勤務のアンドリューの留守をよい事に大胆不敵にセーラ妃は遊び回った。テキサスの石油王スティーブン・ワイアットとの浮気の現場を押さえられてしまう。スティーブンの頼みで、バッキンガム・パレスでイラクの石油商ラムジ・スルタン博士を主賓にしたディナーを催した。それも、イラクのクエート侵攻が始まったときであった。博士は英国外務省にとっては「ペルソン・ノングラータ」(外交上好ましかざる人物)である。セーラは愛人スティーブンをバッキンガム・パレスで開かれる、王太后,マーガレット王女、アンドリュー王子の合同誕生日舞踏会に招待状を出すよう働きかけた。セーラ妃と比べると、ダイアナ妃は聖女にみえるという。それほどセーラはセックスにも、お金にも汚かった。先日も英国のタブロイド紙が偽の融資話をセーラ・ファーガソンに持ち込んだところ、彼女は2千万円を払ってくれと、新聞記者に迫っている場面がTV放送されていた。 彼女はすごい額の借金で苦しんでいるという。 エリザベス女王も、アンドリュー王子と離婚したセーラ妃の借金を払う気はないという。 英国の新聞も「国民が不況で苦しんでいる時に若い王室の連中が特権を利用して目一杯遊び回っている」と批判している。

次月号に続く。


    終   柴田



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