ジャーナリストのパソコンノートブック |
(73)夏がくれば思い出す |
暑い夏の午後になると思い出すのが, ローマのホテルのシエスタである。Siestaはスペイン語で午睡(13:00-16:00)であるがスペインやイタリーの生活習慣になっている。商店でも,会社でも,役所でも,自宅に戻って昼食をしっかりとって,お昼寝をする。けだるい気分でまどろんでいると,4時ごろ窓のブラインドを開く音や,商店のシャッターが引き上げられる音で,街が一斉に午睡から目覚める。よっぽど気持ち良い睡眠をとったのであろうか,素晴しいテノールの歌声がどこからか響いてくる。夫婦喧嘩の声も聞こえてくる。気温は30度もあるのに,空気が乾燥しているのと,風通りのよい建築の為か,ブラインドの隙間から心地よい風が吹き込んで来る。このホテルに決めて良かった,街の人々の息吹きが感じられる。実はイタリア人のビジネスマン(ミラノ市)に「ローマに泊まるのに地の利が良く,手ごろな値段で,安全なホテルを教えてくれと頼んだら,幾つかのホテル名を教えてくれた。有名なスペイン広場の前のコンドッティ通りの小さくて瀟洒なホテルに決めた。フェラガモ,斜め前がグッチであり,ブランド・ストリートである。 シエスタから目覚めて,まずエスプレッソか,カプチーノを飲もうとカフェ・グレコに出かける。カフェ・グレコはキーツ,バイロン,ダヌンツイオも通った由緒あるカフェである。私は外の通りが見渡せるテーブルに座り,マン・ウオッチングを始める。ファッション雑誌から抜けて出てきたような伊達男達が通りを何回も往復する。今夜一緒に食事する女性をハントしようとしている。 私は慌てて濃いめのサングラスをかける,女性にしつこく付きまとうPappagallo (パッパガッロ:オウム=女性にしつこく言い寄る男)に隙を見せない為だ。彼等は自分達の目に自信を持っていて,地中海ブルーの目でジッと見つめてくる。こちらが少しでも目に動揺をみせるとつけあがる。サングラスで自分の目を隠す,それから,片言の日本語で話し掛けられても,反応を見せない事だ。 一番最初にローマを訪れたのは,クリスマス時にロンドンの友達のところに行く時,ローマ空港で乗り換える筈が,私の乗ったインド航空がハイジャックに遇い,5時間もローマ空港で機中足留めを食らった時だ。クリスマス・イブにハイジャックされるなんて,キリスト教徒の航空会社では絶対起きない事故だ。何のアナウンスも無しに一時間,2時間,3時間と機内で待たされた。外を見ると遠くで林の様に見えた影が徐々に近付いてくる,軍隊が取り囲んでいた。それでも自分の乗った飛行機がハイジャックされたとは思えなかった。5時間も閉じ込められた後,解放され,空港ロビーのTVニュースでたった1人のインド人がナイフ一本でコックピットで暴れ,パイロットが怪我をしたと云う。きっと警察も,軍隊もクリスマス休暇で人手が足りなかったのであろう,解決に5時間もかかった。 ロンドンへの乗換えの飛行機も間に合わず,航空会社が用意したローマ・テルミネ駅近くのペンションに泊まる事になった。この時期ローマのホテルはカソリックの総本山バチカンのクリスマス・ミサに世界中からやってくる信者で満杯であった。空港からテルミネ駅のペンションまで乗ったタクシーの運転手が,受付まで荷物を運んでくれたのは良いが,さらに部屋まで付いて来ようとする。幸い受付のおじさんがいい加減にしろ!と追い払ってくれた。 始めての訪問地ローマを探究しようとホテル近くを散歩した。パッパガッロが何人も話し掛けてくる。警官が通りがかったので,話し掛けるところを見せつければ,彼等は諦めるのではないかと思ったが,反対にお巡りさんがウインクしてくる。そして「日本の着物を持っているか?着物を着て僕と街を歩いてくれ」という。この国は絶望的だ。やっとペンションに逃げ込み,カーテン越しに下の通りを見ると3組ぐらいのパッパガッロが外で待っている。私は限られた時間で素早くローマを見て歩きたいだけだ,男漁りにに来た訳ではない!と怒鳴りたくなった。幸い,ペンションに滞在中の一団がバチカンの深夜ミサに行くと云うので,その団体に潜り込ませてもらい,信者ではないが拝観させてもらった。何万人とかの信者の人息れで,酸欠になりそうで,前もって教えてもらった64番の市営バスでテルミネ駅に戻った。それ以来長い事,イタリーは面倒臭いと避けていた。 その次は10年後で,やはりイタリーには来る積もりはなかったのに来てしまった。夏休みにギリシャ,アテネのテッサロニキ港で,何か美味しい魚介類の昼食を取りたいと店の前に並べてある魚料理のサンプル(実物)を覗いていた。ギリシャ料理はいつも,ひき肉,チーズ,トマトのグラタンのようなムサカやスブラキなどでバリエーションがないので食傷ぎみであった。海に近いのに魚介料理がない。小さなアサリがケチケチと盛ってある小皿で日本円で千円もする,魚も小ぶりのめばるのソテーで2千円もする。どの店も同じような値段だ。すると5-6人のイタリア人グループが馬鹿らしく高いと文句を云っている。私もうっかり英語で,日本だったらこの5分の1の値段で食べられると文句を云ってしまった。このイタリア人達はそれなら,スーパーマーケットか,魚市場に買物に行って,ヨットでバーベキューしようと云う。良かったら昼食を一緒にと招いてくれた。皆で,買物をし,豪華なクルーザーのデッキで少しましな大きさの魚や肉をバーベキューして食べ,大いにワインを飲んだ。驚いたのは彼等は新鮮な小鰯(サーディン)を買ってきて,指で器用に頭と内蔵を取り除き,皿に鰯のフィレを敷きつめ,レモンスライスを載せ,オリーブ油を掛けた。それを3層にも重ね,お皿を重しにして,30分位ですごく美味しいマリネが出来た。味の秘訣は上質オリーブ・オイルと良い塩を使う事だという。私は静岡の実家でお魚屋の娘だというお手伝いさんが作ってくれた,手さばきした鰯を生姜おろしと醤油で味付けする刺身を思い出し,作ってみた,イタリア人にも評判が良かった(醤油も生姜もスーパーで売っていた)。新鮮な鰯を見るとイタリア人も,日本人も生で食するという同じような感性を持つ事に驚いた。このイタリア人達によると「ギリシャ人は馬鹿だから,魚を採るのにダイナマイトを使う,網による漁法なら,稚魚などは目こぼしされるが,ダイナマイトだと全て殺されてしまう,だから魚の収穫が先細りになってしまう」と嘆いていた。私も納得がいった。エーゲ海の島々を訪れた時,島の周りの海で素潜りしてみようとシュノーケルと足ヒレを持参してきた。クレタ島,ロドス島,サントリーニ島と潜ってみたが,古代神殿の石柱とかが沈んでいるが,魚一匹見かけなかった。クレタ島に描かれている古代ギリシャの壁画には魚やイルカが沢山描かれており海洋国家という先入観を持っていたので,魚がいないエーゲ海は無気味であった。最近になって,地中海のマグロの減少と大騒ぎされ,日本のマグロ漁獲が犯人にされているが,ギリシャのダイナマイト漁法が原因でないかと思う。ダイナマイトはマグロの稚魚も殺してしまうからである。最近ではアフリカ沿岸でもダイナマイト漁法をしていると聞いた。 このイタリア人達はミラノの実業家でこの後,ジェノバ港に帆走すると云うので,そこでお別れした。彼等は料理はイタリアの方が断然おいしいからイタリアに行くべきだと勧める。それならローマに行ってみようと云う気になった。 英語の一番上手い,ジョン・レノンみたいな人が名刺をくれ,彼の会社(水道敷設事業)はローマにも支社があるので,困ったら聞いてくれと言った。この時ローマで推薦するホテルを数軒教えて貰った。隣近所にグッチ,フェルガモ,プラダ,エルメスなどの本店がある,コンドッティ通りの小さなホテルに決めた。空港からこのホテルにたどり着くまでパッパガッロに付け回され,大変であった。それは私がいい年なのに,エーゲ海の1週間クルーズで思いきり日焼けしてしまったからであった。ローマの街を歩いていて,すれ違う男達が「ダイナマイト!」と叫ぶ。つい最近まで,よく日焼けした女性がが一番好まれるというイタリア人の価値観を知らなかった。日焼けで,肌がシミだらけ,ちりめんジワになった50-60才の女性でもまだ日焼けしようとする。イタリアのマダムに日焼けは皮膚癌になる,これが世界の常識だと忠告しても,いまだに日焼けした方が魅力的だとかたくなに信じ込んでいる。ローマ空港で入国審査していた係官が,私のパスポートにスタンプを押した後,その窓口を閉鎖した。私の後に並んでいた50人ぐらいの観光客は他の窓口に移らなければならなかった。この係官は私の後を追ってきて,貴女みたいにきれいに日焼けしている女性は空港で捕まえておかなければと電話番号を書いた紙を私に渡した。お昼を一緒に食べようという。次に,空港にある銀行で,やたらゼロの数が多いイタリア.リラに交換しようとしたら,銀行員が電話番号をかいたメモ用紙をくれ,あと10分で午前中の仕事が終る,お昼を一緒に食べようと云った。空港から市内に行くのに,以前タクシーの運転手にしつこくされた経験があるので,バスで行く事に決め,バスの列に並んでいると,先程,バスの切符を売っていた男が追掛けてきて,どのホテルに泊まるのかと聞いてきた。お昼に迎えに行くからといった。空港で渡された三枚の電話番号を書いたメモは即廃棄した。 こういう事に時間を割くなんて,イタリアの空港公務員,銀行員の労働生産性は随分低い事になる。 知らない土地で私がまず取り掛かるのは,女子学生と友達になり,情報を手に入れる事だ。男性は面倒臭い。女子大生位なら皆英語をうまく話す。カフェ・グレコでもスペインからの女子留学生が隣に座っていたので,話し掛けたら,彼女は気軽に応じてくれた。そこで図々しく,夕食を御馳走したいが何処か美味しいところを紹介してくれと頼んだ。少し外れた場所にある,学生が行くような食堂であった。大きな瓶にピーマンだとか,トマトがオイル漬けにされており,魚の塩漬けになっているものを瓶ごと出してきてた。ワインも一升瓶で出てきた。こんなに飲めないと断ったら,食べた分量だけ,飲んだ分量だけ,お勘定するのだそうだ。 スペインの女子大生と翌日カフェ・グレコで夕方会う約束して別れた。 翌日カフェ・グレコでスペインの女子大生と話していると,彼女の友達と云う若い男の子二人が話し掛けてきた,1人はグッチの店員で,もう1人はフェラガモの店員だと云う。さすが世界の一,二を争うブランドショップだ,とびっきりの美男子を揃えている。浅黒い肌に,地中海ブルーの目をしている,私はうっとりとみとれているのを悟られない様に,濃いサングラスをかけ直した。皆で,ベネト通りに行くことになった。べネト通りは高級ホテル,高級レストランが立ち並ビ,ローマ一番の洒落た通りである。特にカフェ・ド・パリは映画「ローマの休日」に続いて,フェリーニの映画「甘い生活」の舞台になっている,夜な夜な上流階級の富豪や芸術家,映画スターのカップルが無為に時間を費やした場所だ。この席にマストロヤンニが座っていたのだ。そこに私のような日本の中年女が素晴しくハンサムな若い男の子を二人引き連れて入って来るのを見たら,フェリーニが生きていたら何と云うだろうか。しばらくして,物凄く背の高い金髪のファッション・モデルのような女性が近付いてきた。昨日もカフェ・グレコで見かけた。物凄く図太い声で,英語で話し掛けてきた。彼女はアバゲイルと云う英国の映画女優だと名乗った。「周りがイタリア語ばかりで,うんざりしている,久しぶりに貴女と英語で会話出来るのが嬉しい」と云った。英語なら周囲が分らないだろうと二人でイタリア人の悪口を思いきり語った。彼女はいわゆる性転換した(トランスバスタイト)である,イタリアの映画監督の愛人であるとも云った。彼女は「貴方ばかり,あんなに美しいボーイズを独り占めしてずるい,ずるい」と本音を漏らす。私は「ボーイズは二時間前に知り合ったばかり,私には若すぎる,良かったらどうぞ! グッド・ラック!」と云った所,彼女は全員を夕食にに招きたいと,私達を真っ赤なオープン・スポーツカーに乗せて夜のローマを突っ走った。爆音を立ててコロッセオの周囲の石畳を走った時,古代ローマの拳闘士の霊が目を覚ましてしまうのではと心配した。この車は彼女のボーイフレンドが買ってくれたものだと云う。ベネト通りに戻り,一番流行っているクラブ(ディスコ)に入った。 私はイタリア人の男性が皆,ガーリックとオリーブオイルが混じっているような臭いに,鼻を背けたくなる。狭い空間で,皆が踊っているので,濃縮された臭いで気分が悪くなった。毎日食事で食べていれば肌から発散するのは当然だ。シーザ?などの古代ローマ人男性も,肌にオリーブ油をすりこんでいたと聞いた。ボーイズの面倒をアバゲイル姉さんに任せて,こっそり抜け出す事にした。彼等だって子供ではない,彼女が"HOMO"(イタリア語でオモと発音)である事に気がつくはずだ。 日本人にはゆっくり時間をかけて夕食をとり,深夜まで遊ぶというイタリア人の生活習慣は体力的にかなりきつい。ローマに赴任したばかりの日本の商社マン夫婦は夕食やパーティー等あらゆる招待を愛想良く受けて,毎朝一時,二時に帰宅,バタンキューという生活が続けた。しかし,この新婚夫婦は子供を作る時間がないのに気が付いた。御主人はイタリア人の部下に自分の疑問をぶつけてみた,「一体イタリア人はいつ子供を作るのだ」と聞いた,すると部下達は,シエスタの時間だと答えたと云う。それ以来,シエスタから真面目な顔をして戻る社員の顔を見て笑いが止まらなかったと云う。 ホテルに戻ったら,ギリシャで会ったミラノの水道屋さんからの電話メッセージが入っていた。自分はサウジアラビアの水道敷設工事プロジェクトを受注したので,リヤドに行かなければならない,ローマ支社の部下が明晩貴方をお食事に迎えにいくでしょうと書いてある。彼は自分が教えたホテルのどれかに私が泊まるであろうと推測して,電話を掛けてきたのだ。彼の部下がいくらイタリア男であっても,ボスが接待しろしろと命令した女性に失礼な事はしないであろうと招待を受けた。イタリア男は80?90才になっても,気をつけろと云われているが,翌日迎えに来た社員は眼鏡をかけ,黒い腕カバーをして帳簿をいじっているような超真面目な中年男性で少しがっかりした。信じられないのは彼が馬車を雇って迎えに来た事だ。古代の城壁に添った石畳に響く馬の蹄の音,まるで100年以上昔,女性が恋人に会いに行くようなロマンティックなシチュエーションだ。こういう場合女性はフード付きの黒のベルベットの長いマントを身にまとってと想像を逞しくする。ふと隣を見ると地味な出納係のおじさんの顔で現実に戻された。馬車を雇ったのは彼のボスの考えであろう。残念だ,残念だと日本語で連発した。ローマは不思議な街だ,昨晩はフェデリコ・フェリーニの1960年代のローマにいた。今夜は古代ローマのコロッセオを馬車で駆け巡った。私は自分がかなり加減な人間であるので,イタリア的生活と波長が合うらしい。ここでは夜7時のTVニュースが3分も遅れて始まっても気にしない。知り合いのドイツ人特派員は伊政府の発表する金の保有高や経済統計が発表する省庁によってまちまちで,真面目な彼はノイローゼ気味であり,食事も喉を通らず,吐いてばかりいた。私は日本で3週間前まで書いていた日本のGDPだとか,外貨準備高だとか金融経済記事が遠い昔の事の様に感じられた。その時,帰りの航空券を無くしてしまった,アリタリア航空の町中店に行き,再発行してくれる様,英語,フランス語,イタリア語,手のアクション,泣き顔等総動員して頼んだ。すると店の男性スタッフが同情して涙流して,「なんと可哀想なバンビーナ」と,私の予約を東京に電話して確認してくれ,切符を再発行てくれた。私自身,自分はまるでソフィア・ローレンの様にオーバーなアクションをし,「マンマ・ミーヤ!」と両手を上にかざした。やっている内にどうして,こんなオーバーな演技ができるのか,自分でも吹き出しそうになった。その時,私は確信した,自分はイタリアで十分生き延びる事ができる。しかし,これ以上,ここにいたら危険だ,日本に戻れなくなると警戒する自分もいる。ローマとお別れする事に決めた。 終 |
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