ジャーナリストのパソコンノートブック |
(64)ダイ・ハード経験 |
「赤と黒」という小説で有名な作家のスタンダールが残した最後の言葉は「生きた,愛した」であり,墓碑にも刻まれている。私のフィナンシャル・タイムス紙の同僚は一昨年60才で直腸癌で亡くなったが,死に際に友人達が「人生でやり遂げたと事は?」と聞いたら,「ゴルフ」と答えた。彼はAP-DJ, FTと金融専門, 自分でも英文金融ニューズレター発行,大蔵省の著作等金融で名を成した。しかし夏休みに野尻湖の別荘前の9ホールのゴルフで「やり遂げた」とは意外であった。人間には自分自身に課した達成目標の様な物がある。それはスイカの種をできるだけ遠くに吹き飛ばすなど人によって違う。私にとってはヨーロッパ・アルプスで一番高いスキースロープで(富士山頂に近い高さ)新雪を一番最初に滑り,フランスやスイスのオリンピック選手達に新雪に残した自分のスキー跡を自慢したことだ。私のやり遂げたと思う言葉は「生きた,滑った」である。 ある年,冬にロンドンの本社に勤務しなければいけなかった。私にとって冬スキーが出来ない事はひどく不満であった。毎年11月末から3月末まで,殆ど毎週末スキーに出かけると云う生活を大学時代からの30年間続けていた。ある日エコノミスト誌にフランス・アルプスのスキーツアー客募集の広告が出ていた。驚くのはその値段である。ロンドンースイス・ジュネーブまでの往復航空代,そこからフランス側のスキー場までのバス代,シャレーでの宿泊代(3食,ワイン)も含めて,1週間でたった2万円である。必要なのはスキーリフトとゴンドラの1週間パス代1万円だけである。海外観光客を増やそうと云う仏政府の援助があったから低価格が可能になった。フランス人達は自腹であるので凄く高い料金を払って来ているという。英国からのスキー客は各々シャレーに10名単位で宿泊する。英国では上流階級は娘をフランスのコルドン・ブルーという世界一の料理学校で花嫁修行させる。彼女達はコルドン・ブルー卒業後,英国の大企業にあるダイニングルームで重役達の接待用ランチを料理する為に雇われる。彼女達がアルバイトでフランス料理を作ってくれる。唯一の不満は,夕食が遅い事だ。スキーから戻り空腹で死にそうなのに夜の10時まで待たなければならなかった。夕食時間は彼女達が食材の買い出しの帰りに立ち寄るワインパブに素敵な男性がいるかどうかで決まる。彼女達はしこたま飲んでも,フランスパン10本,ワイン数瓶を抱えて,転ばずスキーで帰ってくる。それから夕食の支度だ。見学していて随分料理の勉強をさせてもらった。 最初に訪れたのはフランスで一番規模の大きいコーシャベルというスキー場で,リフトだけでも150基もあった。メリベル,バルデゼールと共にトロワ・バレー(3つの谷)と呼べれ,冬季オリンピックが催された。特にコーシャベルは冬の社交場として知られ,室内テニス,スカッシュ,室内プールからはゲレンデが見渡された。レストラン前のテーブルには豪華な毛皮をきた美人が小型犬を足許に座らせて日光浴をしている,犬が寒くてブルブル震えていてもお構いなしだ。フランスのスキー場の良い点は,寒くなればヴァン・ショ(赤ワインを温め,オレンジと砂糖,クローブで味付けしてある)で暖をとれる。一杯100円ぐらいであった。昼食時に一番下のスロープまで滑り降りてきたが,どのレストランも混んでいる,ヴァン・ショを一杯あおり,昼前に短いスロープであと1―2回滑ろうとすると,昨日見かけた毛皮の美女が,水色のスキーウエアーに着替えて現れた,素晴しい金髪を見せびらかす為か,スキ-帽子を被っていない。歩き方で彼女が初心者である事が分る。彼女のボーイフレンドと小型犬はレストラン前で日光浴をしながら彼女を待っていた。金髪美女はリフトを降りて,スロープの端の低い潅木の方向に消えて行った。私は2回の大きなターンをして滑り降り,さっきの金髪美女はどうしたのかしらと見上げていると,なんと水色のサロペットを足許まで降ろし,お尻丸出しの和式トイレ風に腰を落したままの姿勢で女性が滑り降りてきた。あの金髪美人だ。唖然としている我々の前で彼女はすくっと立上がり,顔色も変えずサロペットを引き上げ,スキー板を外し,憤然として歩き去った。ボーイフレンドと子型犬は慌てて後を追った。傍観者としての私の推測であるが,彼女はレストランのトイレが混んでいたので,スロープの上の潅木の陰で用を足そうと,サロペットを降ろした。しかし,スキー板は和式トイレ姿勢の彼女を乗せたまま,滑り出してしまった様だ。余程ショックが大きかった為か,彼女のスキー板は夕方まで雪の上にそのままになっていた。我がままそうな女性であったのでボーイフレンドは彼女のヒステリーをなだめるのに相当時間がかかったのではないか? ペット犬は下手にじゃれついて,壁に叩きつけれたのではないか?。 翌日からこのリフトに乗る度に,スロープのコブになっているあの陰上手く転べば,サロペットを引き上げる事が出来たのではないかと,自分だったらとシュミレーションをしながら,笑いが止まらなかった。 ここのスキー場のリフトを4つ乗りついだ標高の高いスロープで,スカイダイビングで雪上に降りる遊びをやっているのを見つけた。おもちゃの様な小型飛行機が切立った氷河の壁に削られた半円形の飛行場に着陸した。ここには滑走路が無い,着陸した飛行機は半円形の壁に沿って方向転換しながら辛うじて止まる。離陸時はもっと恐い,パラシュートを装着した客を乗せた飛行機は滑走路が無いのでいきなり,谷底に向って飛び降りる。アルプスの谷底からの強い上昇気流を捉え浮上する。私は海外でなければと出来ないスポーツは何でも試そうと意地汚なかった。年とって暇とお金が出来てから試そうとしても,身体の自由が効かなくなってからでは楽しくない。水上スキーは香港のジャーデン・マセソン社が接待用に使っているアヘン戦争時代のジャンクと呼ばれる帆船でシナ海をクルーズした時,曵いていったモーターボートで教わった。ウィンドサーフィンはイタリアのブランチアーノ湖という避暑地で(数年前ブラッドピッドが結婚式をあげた)ボードもブームも木製の原始的なウィンドサーフィンボードで(現在はグラスファイバー,カーボンファイバーで凄く軽くなっている)教えてもらった。スケートボードもカリフォルニアで日本で流行る10年も前に覚えた。その後軽井沢の峠の上から曲がりくねった車道をスケボーで滑り降りた。せっかくだからとスカイダイビングの講習を受けた。私は何かやりたいと思うと頭の中がイケイケモードになってしまい制動が効かない。講習では,メインパラシュートが開かないと焦ってしまい,サブのパラシュートを開けてしまうと二つのパラシュートのロープ同士が絡まってしまい御陀仏だ,落ち付くことが大事だと教わった。身を切られるような寒風に飛び出し,合図でパラシュートを開く事にした。そこで全く思いもよらない体験をする事になった。当時のパラシュートは空軍の払い下げ品のようなシロモノで,ハーネスがウエストのベルトに繋がっていた。開く時強烈な力でウエストのベルトが引き上げられ,脇の下ぐらいまでずり上がった。ベルトは私の胸の出っ張り等を全く無視してずり上がるので,乳房が引きちぎられるような痛みを味わった,ひどい擦過傷が出来た。現在のハ-ネスは短いベストの様なもので固定,胸の中心でパラシュートのロープに繋がり改善されている。長い間谷からの冷たい風にさらされ,冷風は胸の擦過傷に容赦なく染み込んでくる。アルプスの風景を楽しむ余裕等なく,私の「痛いよー」と云う叫びがアルプスの山々に響いた。そこで始めて気がついた。世界の空軍で女性のパラシューターを見かけないのは,この胸の激痛の為だ。やはり,女性には出来ない事もあるのだ。 ニ度目のアルプスでのスキーは4月半ばであった。まだ雪が残り,スキーが出来るのはヨーロッパで一番標高の高いバル・ソレンと云う2500メーターのスキー場だ。この回のグループには英国の若い人達が多く,私は50代,自分の体力的な衰えをひしひしと感じた。それはスキー技術でなく,アフタースキー活動だ。スキーから戻ると,彼等はテニスコートに直行,次にプール,夕食後はスカッシュの試合,そしてディスコと深夜まで遊ぶ。私は疲れて早く就寝しても,翌朝集合時間に遅れてしまうが,彼らは朝から元気だ。雪は溶けて重く,満足のいくスキーが出来なかった。最後の日に,雪の状態が良いスロープで滑りたいと,早朝一番標高の高い山頂に行くケーブルカーで上った。相変わらず私の頭はイケイケ・モードで,他のリスク要因をインプットして総合的に判断出来なかった。私の失敗は英国製のスキー場地図を使った事だ。標高はすべてフィートで示してある。フィートでは高さが感覚的に掴めない。フランスはメートル法を採用,仏製のの地図を見れば,私が滑ろうとしたスロープが3,600メーターの標高にあり,富士山の9号目ぐらいだと気がついたであろう。仏製の地図を見れば,この辺の山の峰にすべてGlacier(氷河)と付いている事に気が付いたであろう。 頂上のスロープには昨晩降った新雪が神々しく輝いていた。この新雪に最初にシュプールを描くのは私だ。アドレナリン全開で,新雪に飛び込んだ。雪は胸の高さまであるが驚く程軽い,粉雪が鼻孔や喉に入り込みむせるほどだ。急斜度のスロープを飛ぶような感じでウエーデルンで2本滑った。新雪を求めてヨーロッパスキーの猛者達が集まり始めた。私は雪面に残した滑走跡を彼等に示し「あの2本のジグザグは私のものなの」と自慢した。カメラを持って来なかったのが残念だ。以前イラストレーターのマッド・アマノ氏が雪面に刻まれたジグザグのスキー跡の写真に車のタイヤを合成したポスターを作ったが,あるスキーヤーがあのジグザグは自分の描いたスキー跡,肖像権の侵害だと裁判を起こした事があったが,私にはそのスキーヤーの気持ちが良く分る。 私は午前中休憩も取らず頂上付近の三つのスロープで滑走を続けた。標高3,600メーターの山で激しい運動をするとどうなるかを体験したのは昼食後であった。頂上のレストランで牛肉の赤ワイン煮を注文したら,小さなグラスに,おちょこ一杯位の赤ワインが付いてきた。無知な私はフランスにしてはケチだと思いながら飲み干した。途端に心臓が飛び出る程鼓動が激しくなった。慌ててコカ・コーラを飲んだが,一本800円もする,動悸は治らず2本目を飲んで,休むことにした。今考えれば完全なる高山病である。そういえばスイスのツェルマット(4000メーター級)で,観光ガイドに急いで歩くと高山病になるので,ムーンウオークのようにフワフワと歩いてくれと云われたのに,どうして思い出さなかったのだろう。3時頃になって山の気候は急変した。強風で雪は吹き飛ばされ,スロープには氷河の青白い氷が露出し,牙をむき出した。現地での貸しスキーの鈍ったエッジでは全く歯がたたない。スロープの端の雪だまりでスキー板をスライドさせて降りることにした。上から三つ目のスロープの端で危うく林の中に滑り落ちそうになった。すると林の中で背中をこちらに向け男が立っている。確かこのクリーム色のジャケットでうつむき加減の男は午前中もここにいた。その時は彼が木に向って立小便していると思い,邪魔しないよう立ち去ったが,この猛吹雪の中で変だ。「ボンジュー ムッシュー」と声を掛けたが反応なし,近付いて見ると足許の雪が血で真っ赤に染まっている。木に激突して,木の枝が彼の胸を貫いていた。午前中見かけた時,彼はすでに即死状態だったろう。ショックで私の足はワナワナしてスロープに戻るのに苦労した。他のスキーヤーかパトロールに伝えなくてはと,高山病で鈍くなっている頭を必死に働かせた。フランス語で「助けて!」はどう云うのか,面倒だ,英語の「Help!」で叫ぼう。どうしたら「男が林の中で死んでいる」とフランス語で云うのか? フランス語で作文した。林の中は(Dan le boi)だ,男は,ガルソン(給仕)ではなくて,「ムッシュー」だ。死んだの表現は,アナベール・カミュ(Camus)の小説「異邦人」(L’Etranger)を原語で読んだ時,「昨日,母が死んだ」(Hier, ma mere est morte)と云う最初の出だしを思い出した。これを応用して”Dans le boi, monsieur est mort”とフランス語で作文した。純文学がこんな時役立つなんて!しかし,実際にはパニックになって「アワ,ウー,アウ」と言葉にならない音を発した。落ち着いて片言のフランス語でパトロールに話したところ,何とか通じた! 余りのショックと,フランス語で説明するという緊張で疲れきり座り込んでしまった。立上がる余力もない,二人のパトロールが私に肩を貸してくれて,安全なスロープまで伴走してくれた。午前中のイケ,イケ・ヨウコはどこに行ってしまったのか? 私がショックを受けたのは,青い氷河がむき出しのスロープで制御出来ず林に突っ込んで木の枝に刺さるのは彼ではなくて,私であったかもしれないと云うことだった。私はその日2度も同じ林の入り口に滑り込んだが,先客がいたのだ。自分は標高の高いアルプスの山をスキー場の延長と捉えたのが大間違いだ。標高3,600メーターは富士山の9号目だ,日本にいたら4月の富士山の9号目でスキーをするのは三浦雄一郎ぐらいだ。無知とはなんと恐ろしい。 以前英国のラグビー選手15人を新潟の赤倉でスキーと教えた事があった。私がロンドンに半年ぐらい行っている間,私の海の家を英国の銀行員にまた貸しした事がきっかけだ。彼はオックスフォード大でラグビーをやっていて,横浜にあるYCAC (横浜カントリークラブ)のアマチュア・ラグビーチームの一員だ。結局15人が全員この家を使う事になった。この寄せ集めラグビーチームは全日本代表との練習試合で勝った事もある。鼻が曲ったり,段鼻になっている英国ビジネスマンに,その鼻の傷はサッカーで作ったのと聞いてはいけない。英国ではスポーツにも階級意識があり,サッカーなんて,僕の階級ではやらないと怒る。ラグビーで鼻を折ったの?と聞くと嬉しそうに,鼻を折った時の試合の話をする。 YCACの人達も全員大学でラグビー選手であった。 驚く程,チームワークが取れている。朝はチーム朝食と全員で食事の用意,チーム皿洗い,チーム・スピリットの連発だ。スキー場でも仁王立ちになり滑り出す,脚が太く安定しているから転ばず,直ぐ上達した。民宿では煎餅布団を15枚敷き詰め,押し入れの上下にも布団を敷き,全員一緒の部屋でチーム就寝。余り彼等が行儀が良いので自分はモスクワ・ボリショイ・サーカスの熊等を操る猛獣使いだと思った程だ。 しかし,彼等がとんでもないイタズラをしたと知ったのは帰りの列車の中だ。彼等は温泉でグループ写真を撮ったと云った。民宿の温泉は4時から6時まで女性,6時から8時まで男性となっていた。6時になりラガー達は「チーム温泉だ,チーム銭湯だ」と風呂場に出掛けた。脱衣所にはまだ女性が二人残っていた。彼等は外から「ハヤク,ハヤク」とせかした。田舎の女子大生風の二人が慌てて飛び出してきた。私は入り口の掛け札を女性から男性入浴中に裏返した。8時になったので,今度は女性の番だと風呂場に行くと先程の女子大生が「もう誰もいませんよね!」と念を押し,脱衣所の棚に置き忘れたカメラを取りにきた。実はラガー達はそのカメラを使って15人各々のプライベート・パーツ(局部)の写真を撮って,カメラを棚に戻しといたと云う。顔が写っていないから,公然猥せつ物陳列罪に当らないと主張する。気の毒なのは純情そうな女子大生だ。当時はデジカメ出現前であったので,何が写っているかは写真が現像されるまで分らない。現像写真を渡す時のカメラ店主の疑い深い顔まで想像できる。現像で猥せつ物が写っていると警察に連絡する事もあったと聞いた事がある。私はラガー達に威しをかけた。「日本の警察はクソ真面目でユーモアのセンスがないから,新潟県警察から貴男達に呼出しがあるかも,写真のものが誰の持ち物か,貴男達の実物と照合するかもしれない」。 女子大生も現像所も警察に届けを出さなかったようだ。 柴田 |
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