ジャーナリストのパソコンノートブック
(63)遺伝子解読は2010年から早く,安くなる

 私の知人は1990年代米国大手証券会社のエコノミストであった,日本の金融不況が世界の金融恐慌の震源地となると警告し続けた。昨年秋米国発世界同時不況が発生した時,「世界恐慌の震源地になったのは米国の方だったのね?」と嫌みを云おうと電話したら,彼女は遺伝子解読で乳ガンになるリスクを知り,まだ健康な自分の両胸の乳房を全摘してしまったと語った,私はショックで嫌みを云い損ねた。金融判断ばかりでなく,自分の将来の病気に対するリスク判断もいさぎよいものがある。しかし,彼女には乳ガンで亡くなったお婆さんがいたとしても,遺伝子信仰に煽られ早まった決断をしたのではないかと思わざるをえない。
  ゲノム(genome)は遺伝子の集合を表すことばであるが,欧米ではゲノム解読を受けるのは恰好よいとブームになっている。これまでゲノムを応用した新しい治療法,新薬の開発などとゲノムは新聞の大見出しになる研究で,一般人とは馴染みのないものであった。しかし,最近次々と設立される遺伝子解読ベンチャー会社は一般消費者を直接相手にする初めてのビジネスである。例えば,Google系の"23andMe"というベンチャー企業は客から「だ液」を集め,60万個の遺伝子を読む事が出来,個人の形質,先祖,健康状態,病気発症リスクなどを突き止める。"Navigenics"というベンチャーは口腔内粘膜などの組織サンプルから180万個の遺伝子を読む事が出来るばかりでなく,ハーバード大学研究所などの遺伝子学の専門家の意見を求める事が出来る。解読料2500ドルの料金と年会費250ドルを払って,顧客は将来アルツハイマーになる,糖尿病,癌,その他の病気になるリスクを知ることが出来るという。さらに"deCODE Genetics"という遺伝子テストベンチャーは「貴方の先祖を遺伝子から探し出します,そして貴方の健康について詳しい情報を教えます」と云うものである。
   ヒトゲノムの二つのコピー(対)の一つは父親から,もう一つは母親から受け継いだものであるが,脳,生殖腺,骨,皮膚,筋肉,粘液など身体を作り上げている全ての細胞の核にある23対の染色体に糸巻き状に収められている。各コピーは二重らせん状 のDNAという分子で幅わずか320億分の一センチ程しかないが,真直ぐ伸すと180センチ近くになる。この糸巻き分子に体や脳を作り上げる為の命令が化学的暗号で書かれている。遺伝子にはアデン,チミン,グアニン,シトミンと呼ばれる四つの塩基(A,T, G, C)が連なったもので,この四つの文字を三つづつ組み合わせたものがD N A言語の単語にあたる。米国では4000人に1人膿胞性繊維症の赤ちゃんが生れるが,第七染色体上にある遺伝子の欠陥が原因で起き,大体30才までに死亡する。DNAの暗号の内たった一つの文字が「A」 から「T」に変っただけで鎌上赤血球貧血を引き起こす。脳が除除に変型して行くハンティントン病(プロジェリアも含めて)は第四染色体の選択部分の遺伝子にC.A.Gという文字が反復して現れる病気だ。このようにたった1個の遺伝子が変異しただけで起きる遺伝病は3千から4千種類もある。死亡原因の上位にある癌や心臓病は複数の遺伝子同士の相互作用や遺伝子と環境との相互作用がが崩れた為に起きるといわれている。
    ヒトのゲノムは30億個の塩基の並び(文字)が含まれ,全ての人間が同じである。標準的な塩基を比べると一塩基だけ違っている多様性が生じていて,これを"SNP" (単一ヌクレオチド多形)という。SNPは1000塩基対に一個あると云われている。その為,SNPの総数は300万個と考えられている。圧倒的多数のSNPは益にも害にもならない。しかしある特殊な癌の患者に一つのSNPが現れるとそのSNPはゲノム上でピカピカ光る小さな信号の様に,ここに変わり者の遺伝子がいるぞと知らせてくれる。遺伝子を発見する為に診断マーカーを使うのは昔から行なわれて来たやり方だ。 リューマチを患っている人々は90%の確率で同じ遺伝子マーカーとSNPを持っている。一卵生双児の場合,SNPと遺伝子マーカーが同じなら,二人とも同じリューマチを患うであろうと想像しがちであるが,両方にリューマチが発病する確率はたった10%-15%であるという。90才?100才になってもぴんぴんしている健康な老人の遺伝子配列を調べたところ,これら健康な老人の遺伝子は,他の不健康な老人となんら違いなく,アルツハイマー,心臓病,様々な癌などになるリスクの遺伝子を持っていたと云う。学者達の結論は健康な老人は「悪い病気の遺伝子」のリスクを消し去ってくれる様な他の遺伝子をもっているということだ(その遺伝子はまだ解明されていない)。たとえ,遺伝子マーカーやSNPが90%の確率で病気になるリスクを示しても,人間の身体の中にはDNAの塩基配列の変化を伴わない遺伝子の多様性を生み出す生物的な仕組みがあり,発病しない人もいる事が最近分り始めた(Epigeneticsエピジェネティックスと云われる)。またSNP同士が相互に影響しあって,害を及ぼしたり,その反対に遺伝子の異常を無効にする働きがあるともいわれている。 Epigeneticsは遺伝子学者が解明すべきこれからの研究課題である。これまで嚢胞性繊維症の胎児に対し,この遺伝子は男性の生殖不能,肝臓病,膵臓からの出血などの疾患をおこすため,米国の医者は一般に中絶を行なって来た。しかし,Epigeneticsによると,堕胎された子供の中には健康な子供もいたはずと云う事になる。将来乳ガンのになるリスクがあると遺伝子解読されても,乳ガンにならない可能性が50%もあるのだ。
  ボストン大学の神経科の博士は"23andMe"で自分の遺伝子解読をしてもらった。彼が心臓病を患うリスクは平均的米国人より低いと云う診断を得た。博士はその結果を裏付けるようなスリムで筋肉質な体型,親族に心臓病の人はいない,又本人はマラソン選手であった。しかし,2年前,マラソン中に胸に激痛を感じ緊急入院した,大動脈瑠という重篤な病気でバイパス手術をすることになったという。博士は「大動脈瑠のリスクは遺伝子解読で発見できた筈である。"23andMe"のテストの結果が間違った確信を私に与え,予防策をとり損なった」と語る。それであるから「23andME」のように300万個のうちたった60万のSNPをサンプルに照合しただけの検索では,だ液の遺伝子解読は医学的価値を殆ど持たないし,馬鹿らしいと学者はいう。科学者は異口同音に「23andMe」はゲームセンターの娯楽の価値しかないと云う。 "23andMe"が公的な遺伝子解読ビジネスをするにはヒトゲノム30億個の解読と300万個全てのSNPのサンプルが必要になり,各々個人の病歴をしることが必要になるという。遺伝子は相互作用などもっと複雑な働きをしているしているので,遺伝子に関する情報が全て得られるまで遺伝子解析ビジネスは延期すべきであると主張する。 
   これらの未完成の遺伝子解読で,心臓病のリスクがあり,癌のリスクがあると解読されて,それではどうしたらよいか?と云う事になる。 昔から云われているように,タバコを吸わない,健康的な食事をとる,適度の運動をするなど当たり前の事をする以外にない。米国人の人口の三分の一はアスピリンを飲んで心臓病を予防できる遺伝子を持っていると云われる。米国人は遺伝子解読をしなくとも,心筋梗塞,狭心症の予防にアスピリンを少量服用している人が多い,アスピリンには解熱作用の他に,血小板凝集を防ぐ作用があるからだ。巨人の長島元監督のように,心室細動で出来た血栓が脳血管に流れ込み,脳硬塞を起さずにすむ。私のところには米国特派員が,日本を出る時残してくれたアスピリンの瓶がごろごろしている。医者に聞いてみたところ,1錠ぐらいなら,予防に服用しても,問題はないとの話である。家系に癌の遺伝子を持った人がいるかどうかについても,親戚のクララ叔母ちゃんに聞けば,親戚中の病歴の情報をもっと正確に教えてくれであろう,"23andMe"に1000ドル(9万円)の鑑定料を払わずに済む。
    全人類の資産となるはずのヒトゲノムの解読はクレイグ・ベンダーという異端学者と,ベンダーの計画を私企業によるゲノム情報の独占しようとする野望だと挫こうとする米国政府のヒトゲノム計画のリーダー,フランシス・コリンズの熾烈な競争によって行なわれた。解読競争の舞台裏を描いた書物「ザ・ゲノム・ビジネス」はショットガン方式,アルゴニズムなど専門用語は分らなくても,ベンダーとコリンズと才能ある強烈な個性の持ち主に圧倒され,あっという間に読み終えてしまった。ベンダーという存在がなかったら全ヒトゲノム解読という,人類の月面着陸よりでかい事はやり遂げられなかったであろう。ベンダーは落第すれすれの高校生活を送り,大学にはいかずサーフィンに明け暮れていた異端児。衛生兵としてベトナム戦争を体験してから,大学に入学して研究に励む。パーキンエルマ?という二流分析機器会社でベンダーはヒトゲノム研究所(TIGR)を立ち上げから3年後1995年に世界で初めて一つの生物体の遺伝暗号をそっくり解読したのだ(ヘモフィルインフルエンザ菌)。ベンダーの成功は同じ解読装置を使って研究していた米国政府のヒトゲノムプロジェクト代表のフランク・コリンズの面子を失わせた。コリンズは幼少時から天才と呼ばれた,エリート中のエリートである。ベンダーは1998年に「政府のヒトゲノム計画 (2005年完了予定)より先に,3年以内(2001年)に全ゲノムを 解読してみせる」とニュ?ヨークタイムス紙に爆弾宣言をした。国の威信をかけた30億ドルのヒトゲノム計画は出し抜かれ,無用の長物となる恐れもある。しかも,ベンダーの解読方法は比較的安い解読装置を200台いっぺんに使う「全ゲノムショットガン方式」だ。ゲノムをばらして,何千万個の小さい断片にし,各断片のDNA配列を装置で読み終わったら,スパーコンピュータ(クレー社の)とアルゴリズムを使って正しい順番に並べ直すという方法だ。新しくセレーラ社と名付けたベンダーの会社にはノーベル賞受賞者も含め,優秀な学者が続々と集まった,この時ベンダーは50才を越えていた。ベンダーは思った事を直ぐ口にするタイプで,マスコミ受けが良いが,ウオール街の受けは良くない。ベンダーは化学的貢献という名誉欲に燃えたが,解読したゲノムの特許で儲けようとする会社の方針との板挟みになる。政府のヒトゲノム計画のコリンズはセルラー社は解読したヒトゲノム情報を特許登録して大儲けを企んでいるとベンダーを悪役に仕立てるのに躍起になった。さらにコリンズはセレ?ナ社が集めていた知的財産価値のあるSNP情報を製薬会社に無料で流してしまう策略をとり,SNP特許登録で研究開発投資を回収しようとしたセレーナ社の裏をかく。著名な学者でもやる事は大人気ない,コリンズ側はベンダー人形を作って燃やしたとか,解読作業に取りかかっている研究員の自宅に朝3時頃電話してノイローゼにさせたなどの噂が伝えられた。コリンズは解読で先攻しているセレ?ラと協定を結ぶよう政府の圧力を受けた。一方ベンダーがショットガン法で解読したゲノムはは遺伝子マップ(地図)がない為に,ばらばらで組み立てられないので,政府側の遺伝子マップが必要であった。両者の歩み寄りは何回も流れたが遂に2006年6月にホワイトハウスで両者の和睦が発表された。セル?ラは「サイエンス」誌に論文を発表し,遺伝子データーは自社のウェブサイトでのみ利用出来る,大学,非営利団体の研究員は無料でアクセス出来,その情報に基づく発見はセレ?ラに商業的義務を負う事なく任意に特許申請出来るとした。しかし,ベンダーはその後セルーラから突然解雇される。セレ?ラの敏腕社長トニ?・ホワイトは過去の資金調達のロードショウ(説明会)で,ベンダーは投資家の喜ばせる発表をせず,ゲノムの商業化に協力しなかった,ホワイトハウスでの記者会見でも,ベンダーは大統領の隣に座ったのに対し,ホワイト社長は名前さえも呼ばれなかったという恨みからである。皮肉な事にその後セル?ラの情報データービジネスは多くの国々の研究機関や大学から登録され,徴集されたデーター利用料でホワイト社長は初期投資の元を回収したという。
   ベンダーがいかに自己顕示欲の強い人間であることは彼がセル?ラを去ってからニューヨークタイムスに人類初のヒトゲノムの大部分はベンダー自身のDNAからなっているとデカデカ発表した。ベンダーが自分の精子を人類初のヒトゲノムのサンプルに提供したと聞いて,余り気持ち良いものでない。彼自身片方の親からアポE-4と呼ばれる悪い遺伝子を受け継いでいた。この遺伝子は心臓病とアルツハイマー病を発症するリスクが通常よりかなり高くなる。アルツハイマーは予防しようがないが,彼はカロリーを控え,コレステロール低下薬をのみ始めていると云う。 セル?ラ?社はこれからの遺伝子提供者を募る時厳密なプロトコール作りをするという。「基準ゲノムは人類共通の地図であるべきで,個人のものであってならないと」発表した。
   最近足利事件で19年前のDNA鑑定は証拠としての価値がなく,冤罪事件であるとされた。初期のDNA鑑定は技術的に不十分であった。「ザ・ゲノム・ビジネス」の本の中で,1999年時点でも遺伝子の塩基のGの付けた黄色のマーカーが見えなくなってしまう問題がおきた。何日もかけ調べた結果,200台も起動している遺伝子シーケンサー(遺伝子配列解読器機)から発する大量の熱で,DNAの入っている溶液が蒸発してしまうと云う単純ミスであった。足利事件でも,証拠は常温で1年3ケ月も捜査本部のロッカーに保管されてあり,証拠としてDNA鑑定をするのが無理,最新技術でDNA鑑定をすると異なる結果が出た。 米国では2008年4月時点で,DNAの再鑑定で216人が冤罪と証明され,遺伝子鑑定神話は怪しくなってきた。米国ではDNA鑑定の材料が,採取や運搬の過程で混じりもの汚染がおきるなどの可能性があるので,子供が生れたらすぐ遺伝子鑑定をしておこうという動きもあると云う。しかし生れたらすぐ,将来ハゲになり,糖尿病,アルツハイマーになるリスクがあると解読されるのは夢も希望もない。
   この数年ゲノム関連のビジネスはダイナミックな展開を見せている。現在の遺伝子に関する競争はいかにして解読時間を短縮するか,いかにして解読費用を下げるかに集約されている。来年商品化される超高速塩基解読シーケンサーは1時間で1000億個のヒトゲノムの解読を可能にした。 ベンダーとコリンズがこれまでに1万個とか千個単位でヒトゲノム解読の数を新聞発表し,科学史上稀に見る醜い妨害活動を行なってきた開発競争が,まるでアニメの「トムとジェリー」のように滑稽に見える。現在使われて解読シーケンサーで何十時間も数週間もかかる解読が,来年商品化される超高速塩基解読シーケンサーではたった15分で解読出来る。これを開発したのがPacific Biotechnology (パシフィック・バイオロジー)の創設者ステファン・ターナー博士41才とコーネル大学の同僚である。ターナー博士はナノテクノロジーを使って超高速塩基解読を可能にし,1人の人間の全ヒトゲノム解読料金を2007年の10億ドルから,今年はIllmaniaというカリフォルニアの遺伝子チップ会社で5万ドルにまで下げる事を可能にした。来年はスタンフォード大学でのヒトゲノム解読は5千ドル(50万円)で出来るという。今年Pacific Bioの超高速塩基解読シーケンサーが研究機関やモンサントで試験運転され,来年から販売される,価格は60万ドルを予定している(高額の蛍光染料等化学薬品も含む)。超高速ゲノム解読は製薬や医療分野ばかりでなく,食料生産,バイオ燃料の分野で新しいビジネス展開が期待される。Pasific Bio (パシフィック・バイオ)はよく比較されるGoogle, Apple,Intel等のIT関連企業が頭打ち状態なのに比べ,先端技術開発の可能性が大きい会社である。
   ちなみにPacificBioの超高速塩基解読機を使って最初にヒトゲノムの解読を行なったのはジェームス・ワトソンのDNAである。 1953年にDNAの二重らせんの形こそが生命を生み出すもととなるとあの有名な発見をしたワトソン博士に敬意を表して,2007年に"454Life Science"社が博士のだ液の1滴を試験管にとりゲノム解読を行なった。ワトソン博士はセルーラのクレイグ・ベンダーが最初のヒトゲノム解読に自分のゲノムを提供した事に対し「いかにもクレイグらしい」と彼の自己顕示欲を皮肉ったことがあったからだ。   
   2015年頃までには米国のビジネスマンはクレジットカードの磁気ストライブのようなメタリックに光る小さな磁気帯に個人の遺伝子情報を書き込んだ名刺を持ち歩くようになるかもしれないと遺伝子学者は予想する。
                     終わり 柴田



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