ジャーナリストのパソコンノートブック
(60)インドのナノ自動車ショック

「インドのナノ自動車ショック」  

        数年前「3丁目の夕日」と云う映画が放映されたが,そこには日本でTV放送が始まり,買ったばかりのTVに町中の人が集まり,プロレスの試合に一喜一憂する情景が写し出されていた。インドで始めての純国産車タタ自動車の「ナノ(Nano)」を買った人々も,同じような体験をする。先ず,車をヒンズー教の寺院で安全運転のお払いを受け,花びらの祝福を受ける。村中の人々にお披露目し,触らせ,その後一月ぐらい村中の子供を順繰りに乗せて村の周囲を走らせる。ホーンを鳴らしたり,ハンドルを触らせたりする。この四月タタ自動車は全国470の販売店でナノを100,000ルピー(20万円)で売り出した。多くの人々が札束を握りしめてショールームに駆け付けた,群集をかき分けやっとナノの姿を拝んでも,即座に新車を運転して帰られる訳でない。人々はクジ引きをして当選しなくてはならない。35万人がクジ引きに申し込み,10万人が今年末までに新車を手に入れる事が出来るという。
  タタ自動車は昨年夏,西ベンガル州でナノの生産を始めるばかりになっていた。しかし西ベンガル州はマルクス共産主義の牙城であり,タタ自動車が政府のSEZ(特別経済区)制度を利用して,農地を借り入れた事で,反対運動が起きた,共産党員と警察の衝突で死者まで出した。タタは完成間際の西ベンガル州シング?ル工場の建設を諦め,グジャラット州に新しい工場建設を始め,今年末に工場が完成するという。今の所月に3000台の生産能力しかないが,来年は年25万台,最終的に50万台まで生産能力を拡大出来ると云う。

   世界で一番低価格な車を作り出すのがラタン・タタ社長の長年の夢であった。ナノは丁度日本の軽自動車の大きさで4ドア?4人掛け,車体のフレームは日本と韓国の鋼鉄製,その他はアルミニウムを使い,車体の重さを623キログラムにした,本田のアコードの半分であるのが唱い文句だ。後輪駆動2シリンダーでフォルクスワーゲンと同じデザインだ。素晴しいのはその燃費で,1ガロン当たり62マイル走る。トヨタのハイブリット・セダンのプリウスより優れている。ナノ($2,O00)は鈴木自動車とインド政府の合弁会社の車マルティ(3,300ドル)より,ずっと安い。とにかくナノはインドの中流の下層階級の人々を狂喜させた。それまで節約をして,やっと手に入るのは1,000ドルのオートバイであった。日本のTVの旅行番組などで,インドの市街をサリーを着た奥さんと3ー4人の子供をオートバイに乗せて走る風景に驚かされる。振り落とされて亡くなる事故も多いと云う。タタ社長も雨の中オートバイに乗って走る家族の惨めさに同情して,開発を思い立ったという。


「ナノは上昇志向の動機付けになる」   
ナノはインド人の生活を大きく変えると云われている。中流の下層階級人々の移動性が高まる。それまで郊外から乗り合いの幌付き三輪車で通勤していたのが,乗り合いタクシーで早く,安全に通勤出来るようになる。地方の労働力が都会に移動する事で,経済活動は改善され,生産性の改善,経済成長が促進されると見られている。近郊の農家はナノを運転して新鮮な農産物を市内に売りに行け,経済利潤をあげる事が出来る。3丁目の夕日の頃の日本では,TV,冷蔵庫,洗濯機が3種の神器と呼ばれ,中流(日本人の80%)の人々の上昇志向の動機付けになったように,ナノはインドの中流の下層階級の人々に頑張れば車が手に入ると云う実現可能な夢を与える事になった。


「ナノは欧米の自動車に価格破壊をもたらす」    
ナノの超低価格が世界の自動車産業,特に日本の自動車会社に与える影響は計りしれない程大きい。タタ社長は「世界の経済状況が悪化している中,たった一つ残された途は激安の車を作ることだ」と語っている。自動車不況で低迷しているメーカーが縮む一方の消費者の需要を喚起するには,より小型の,より燃費の良い,そしてより安い車を作る事だと「ナノ」そのものがが自動車産業の未来を示しているのかもしれない。これまで日本の自動車メーカーは高機能の車を作れば売れると思ってきたが,それは欧米の金持ちの為のニッチな市場である。ナノのような超低価格の車が欧米の市場を席巻してしまうかもしれない。タタ社長は欧州の規制に合わせたナノの欧州モデルを6,700ドル(65万円)で売り出す計画であると語っている。フォルクスワーゲンのビートルは240万円であるから,ナノは自動車の価格破壊を起すかもしれない。タタ自動車は輸出しなくてもこれから先10年国内の需要を満たすだけで食っていけるのである。ゴールドマン・サックスによると2020年にはインド人はいまの5倍の自動車と原油を買っているだろうと予測している(この予想はこれから先20年間年平均成長率8%が前提条件である)。インドで奮闘しているマルチ・スズキや本田等の日本のメーカーは今年に入って売上げを伸している,しかし,初の国産車ナノの激安価格に衝撃を受け,インドでの販売の先行きには慎重になっている。本田はインドの第2乗用車工場の稼動予定を2010年から2年以上延期する。本田の近藤広一社長は生産能力増強の為の投資は全部カットすると語っている。トヨタも2010年に予定していた年産10万台の新工場の稼動を延期するという。 6月19日初の記者会見をした豊田章夫新社長は「小型車から大型車まで全ての車を地域に関係なく同じように販売するやり方を変える。新興国向けには低価格な車を開発して地域の事情に合わせるようにする」とインド等の新興国での生産計画の練り直しを発表した。ナノショックはインド国内ばかりでない,アジアの近隣の国々で,例えばベトナムなどオートバイやスクータを交通手段にしている国々の人々は,オートバイを乗り捨てて,ナノに乗り換えたいと云う誘惑に狩られるであろう。
   タタ社長はナノ工場の生産が目標の50万台に達したら,サテライト工場をインドの各地に作る予定であると云う。車の部品工場を作り,タタで研修,認証された地方のの独立した起業家に,ナノ組み立てセットを送り,車を完成させてもらい,彼らをそのままタタ社のディーラーに昇格させる。タタの本社はデザインと販売だけを手掛け,車の製造はアウトソ?シングする,このやり方はアップル等のコンピューターメーカが採用しており,労働コストの安い中国の工場で生産されている。タタはアウトソーシングを貧困のまま見捨てられているインドの農村部に仕事をもたらし,経済的活力を与える手段としたいと云う。


「インドの経済成長は内需によって支えられている」
   金融危機以降世界的信用崩壊や輸出の落ち込みで,2009年の世界貿易は9.7%の落ち込み,経済成長がマイナス2ー5%に落ち込むと予測されている。ところがインドの経済成長は8.5%(アジア開銀),中国は7.2%ー7.5%の成長を予測されている,驚くべき成長力である。特筆すべきは,中国はその経済成長を外需に頼って不安定なのに対し,インドは個人消費の回復と金融緩和という内需によって経済成長を予測している事だ。中国経済は半分以上が外需だが,インド経済は4分の3が内需である。中国が輸出市場を開拓している間に,インドは道路や通信網などインフラ投資を増加させた。内需拡大の牽引役は意外にも,中流の下層階級の人々である。彼らは金融危機と無縁の人々で,働いて金を溜め,ナノを買いたいと夢見ている人々だ。インドの通信インフラの整備のおかげで,固定携帯電話の加入者が前年比60%増え,3億5千万人を越えた。人口の33%に当る。来年2010年には加入者は5億人に上るという。殆どが中流の下層階級の人々だ。急拡大するインドの携帯電話市場に世界の12のキャリアーが世界一安い通話料を提供して熾烈な競争を展開している。インドの人口11億7千万人の内の70%が中流の下層階級の人々だ。カーストの最下層の不可触民(アンタッチャブル)を除いて,5億から6億の中流の下層階級の人々が新しい消費パワーとして世界の注目を浴びている。ナノ自動車同様,高機能,高性能のディジタル商品を選ばず,低価格の製品が世界のディジタル商品等のスタンダードとなる。日本の高級車,高機能のディジタル家電等はNTTドコモが2000年ごろすでに開発していた3G携帯の様に,高性能すぎて日本以外には使われず,孤島ガルパゴス島の様だと「ガルパゴス化現象」と呼ばれている。
   中国は昨年秋以来の不況をいち早く乗り切り,内需は回復を見せている。これは今年初め施行した大型景気刺激策がもたらした効果である。内需回復からの利潤を外資の手に渡したくない。最先端ではないが独自の製品標準,製品開発を始めたのが中国である。例えば中国はソニ?,松下連合のBlu-Ray方式と抗争で破れた東芝のHD DVD方式を選び,改良し,独自のCB HD方式を採用し,日本製品の数分の1と云う低価格で販売をはじめた。日本や米国が採用したグローバル・スタンダードのBlu-Ray規格を使って生産したら,外国に払う特許料が高くて,中国のメーカーは儲からない。人口13億人の4分の1がDVDを買うとしても,3億の市場である。巨大な成長市場の果実を外資に渡したくない。 米国の映画製作会社も無視出来ない巨大市場である。ワーナ?ブラザース等が中国のCBHD方式のDVD向けにディスクを供給し始めた。その内,中国製の安いCBHD方式のDVDが海外に輸出され,海外市場も席巻される可能性まで出てきた。事実中国の「華為」とZTEという携帯電話メーカー2社は超安価な携帯電話でアジアとアフリカ市場を征服し,先発のスウェーデンのエリクソン社を窮地に追いやっている。現在中南米のアルゼンチン,コロンビアやチリの市場も中国の携帯に市場を奪われている。 中国やインド等の新興国は巨大な国内潜在需要を武器に低価格の商品でグローバル・スタンダードを勝ち取ろうとしている。高機能,高品質を売り物にしてきた日本の車メーカー,テレビ,パソコン,携帯電話メーカーはガルパゴス島のイグアナになって欲しく無い。
  
  この春以来米中関係がぎくしゃくしている。私は1月号「崩れ行き米国の金融覇権」で「米国債の最大保有国になった中国は米国経済と一連托生の運命を背負う」と書いた。今中国はドル下落が確実視されている状況で,米国債への依存軽減など焦っている。2兆ドルに届く中国の外貨準備の大半は米国債や米機関債券でその額は1兆3千億ドル,ドル安で評価残高が大分減った,もし中国政府が一挙に米国債を売れば,ドル暴落が起り,中国の対米債権の回収はできなくなる。中国政府代表はことあるごとに金融危機を招いたは米政府の失敗だとあげつらい。米ドルに代わる国際基軸通貨の創設を唱え,中国は関連国と次々と通貨スワップ協定を結び,人民元の世界的流通を狙っている。 中国は「米国債保有」を武器に米国に対し政治力を強めている。
  中国は同時に輸出偏重政策,外資優遇政策を見直している。何かにつけ外資を冷遇するようになったという。これまで中国政府は経済成長を達成する為,外国企業に超国民待遇と云う優遇措置を与えた,中国の経済発展は達成したが,利潤は外資の手に流れた。フォルクスワーゲンは20数年間で,投資額の数十倍に上がる利益を中国から持ち去った,優遇措置が無くなった今,米国企業もこんなに高い輸送費を払って,わざわざ遠い中国で製造する必要があるのかと疑問を持ち始めた。アークストーン・コンサルタントは中国に進出している欧米企業の90%が中国での事業の一部を本社に戻すとか,事業閉鎖を考えていると云う。中国商務省は3月コカ.コーラ社による中国のブランド飲料水会社の買収を否定した。中国と欧米企業のハネムーンは終わったと云われる。


「日本のインフラへの巨額援助はパワーバランスの為」
   2002年にニューデリーの地下鉄「デリー・メトロ」が完成した。殆どが日本の財政支援だ。デリーとムンバイを新しい高速道路で結ぶ「輸送回廊」は900億ドルの大プロジェクトで2008年に着工され,日本はその3分の1を援助している。その他,港湾,空港,鉄道,電力,都市整備等インフラ整備の国家プロジェクトが進行中で,日本は20億4千万米ドル(約2000億円)を投資しており,インドは日本のODAの最大の受益国になっている。どうして日本政府は一方的にインドに好意を寄せるのか? アジアには3大勢力,日本,中国,インドが共存する。中国の急速な経済成長は日本の輸出の脅威にまでなっている,さらに何度も繰り返される中国と日本の歴史認識問題,東シナ海の石油.天然ガス田開発の領海線問題,尖閣諸島問題などの経済的,軍事的覇権を狙っているのではないかと思わせる行動をとっている。インドはインドで隣国と仲が悪い。その後ろに,中国の覇権が見え隠れする。今年5月インドはスリランカと和平協定を結んだ。スリランカとの紛争が1987年から長引いたのは中国が最大の武器の援助国であった事だ。中国は巨額の投資をしてスリランカに港湾施設を建設している。これは中東からの石油輸送の為,また中国海軍の停泊のためだと云われている。インド洋に進出する中国に対し,インドも海軍の近代化を進め,今年初の国産原子力潜水艦を配備した,弾道ミサイルを装備している。日本は新テロ対策特別措置法で,海上自衛隊がインド洋上で石油の補給活動を6年間行なっている。新テロ特措法で海上自衛隊派遣が1年間延長された。最近では民主党も政権を取った暁には,海上自衛隊のインド洋への派遣を柔軟に対処すると云っている。2004年に中国は日本とインドの国連安保理常任理事国入りを阻んだ。北朝鮮の核保有,ミサイル実験に対し国連の制裁措置法案を骨抜きにしたのも中国の反対によるものだ。戦略的にも,経済面でも中国の台頭に拮抗させる為にインドを強くする手段としてインドの巨大インフラ・プロジェクトを支援するする方が日本にとって国益にかなう。インドの企業は当分の間日本の競争相手になるとは思われていない。米国のブッシュ大統領もアジアの三大勢力のバランス・オブ・パワー・ゲームに参加した。 昨年夏インドと民生用核協力協定を結んだのである。インドが強くなれば,アジア地域で中国の策動するのを制御出来る。将来中国が米国の脅威となるのを思いとどまらせると云う見込みからだ。


「人口の増大は高い経済成長を保証する」                                  
   インドには生活水準の低い人口が多くて,彼らを生活水準の向上に向けて動員出来れば大いに成長を加速出来る。楽観的な経済学者はこれから先数十年インド経済が急成長する理由として,一貫して人口が増加するのはインドのみで,中国は金持ちになる前に老いてしまうと云う。インドの人口動態が優れているのは,人口の増加ばかりでなく,人口構成が理想的であると云う事だ。人口の70%が35歳以下だ。底辺が長い理想的なピラミッド型になっており,若年層が増えれば,貴重な働き手があると同時に高い経済成長が期待される。 少子化が進み労働力人口が減少し,年金問題に悩む日本からしてみれば,インドの人口形態はうらやましい。
    今年5月18日はインドにとって記念すべき日である。選挙で与党国民会議派が圧勝した。過去20年,インドはカースト制度や民族,宗教をめぐる国内問題,左派勢力が強く政府が弱体化していた。しかし
4億2千万人の世界で最も貧しく,教育水準の低い部類に入るインドの有権者はマンモニハン・シン首相のひらかれた経済の実現に向けた動きを支持した。政府の(SEZ) 特別経済区を支持する地方政府も国民の支持を得た。ソニア・ガンジー国民会議総裁,その息子のラウル・ガンジー下院議員は,国民会議派を若返らせ,若い候補者を立候補させ,腐敗した国民会議派党を立て直した。シン首相は国民の信任を得た事で,国際社会で責任ある役割を担う,叉積極的な行動をとる事が期待される。


「カースト制度」は都市化によって消える」  
海外のエコノミストがインドの成長の最大の弱点はカースト制度だという。特にインドの人口11.7億人の11-16%はいわゆるアンタッチャブル(不可触民)である。友人と高級レストランで食事をする前に,広場の公衆便所の汲み取をサリーを着たまま小さな手桶でやっているアンタッチャブルの婦人を見かけた後では罪悪感で食欲も失せた。何とトイレの清掃に従事する不可触民は80万人もいると云う。レストランの隣のテーブルにはマハラジャの家族が食事をしていたが,夫婦ともダイヤモンドを耳,鼻輪,下唇,両まぶたに飾り,奥さんの手の10本指全部にダイアモンドの指輪,御主人も指輪,カフスボタンと飾る場所が無いぐらいダイアモンドを付けていた。インドには超金持ちと,不可触民が隣あわせている。E.M. フォスターという作家が書いた「Passage to India 」(インドへの道 1924年)という英国植民地時代を書いた有名な小説があるが,英国人の邸宅の天井にはコロニアルな大きな扇風機が回っている,インド人のアンタッチャブルの少年が屋外で扇風機に繋がるペダルのようなものを足で漕ぐのが動力だ。少年が居眠りをしない様に沢山の蟻を少年の周りに這わせて,噛み付くようにしてあるという箇所だけは鮮烈に覚えている。この様な英国の植民地時代の風習は15年位前目にして驚いた。英国の新聞の東京特派員がニューデリー特派員として転任したので訪ねた。東京では考えられない程優雅な生活で,白いお仕着せを来たインド人男性の召し使い二人が夕食のテーブルに食事を並べていた。すると何が悪いのか分らないが,この英国ジャーナリストの機嫌を損ねたらしく,テーブルクロスを払い,皿,グラス,ナイフやフォークを全て床にぶちまけて,インド人の召し使いに怒鳴った。こうしないと召し使いに甘く見られると彼は云うが,本当に見苦しい光景であった。
  カースト制度は都市化によってゆっくりであるが崩れつつある。貧困のまま置き去りにされている
農村地帯でカーストは大きな問題になっている。大きな問題はインドの教育水準の低さである。インドの識字率(字が読める)は58%である,中国は90.9%である,専門家はインドと中国の識字率の差がそのまま両国のGDPの差に現れていると云う。また識字率の格差は,インド国内での貧富の格差になって現れている。シン首相率いる国民会議派は,格差を埋める為,政府歳出の20%以上(100億ドル)が教育費に充てられているという。そのお陰で,2006年若年層の識字率は76%にまで急上昇したという。 
インドはスタートしたばかりの国である,シン首相にとって解決しなければいけない案件がいっぱいある様だ。                                                                                              
終わり   シバタ



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