ジャーナリストのパソコンノートブック |
(57)国賓の配偶者のもてなし |
日本の首相が訪米する時,米国側が非常に気を使うのが,同行する首相夫人をどうもてなすかである。米大統領と首相が会談をしている間,又軍隊の観閲をしている間など,首相と夫人は別行動である。在米日本人会の夫人達を招いてのお茶会,日本人学校ヘの訪問,身体が不自由な人々の為の自立支援施設,老人介護施設への訪問等のスケジュールが組まれる。大抵は首相夫人の趣味や興味に合わせて,訪問先が選ばれる。私は国務省に知り合いがいて,今度の首相夫人はどんな人か,どんな趣味を持っている人なのか,米国でどのようなもてなしが良いかと相談を受ける事があった。米国務省が一番困ったのが,鈴木善幸夫人をどのようにもてなすかであったという。鈴木善幸首相(1981年)は岩手県網元の出身,全国漁業組合連合出身母体)である。国務省の事前調査だと,首相夫人の趣味は「民謡を唱う事と盆踊り」だと分った。この様な夫人をどうもてなしたら良いか途方に暮れたと云う。ディズニ-ランドにでもお招きして,ミッキ-マウスとかドナルドダックと輪になって盆踊りを踊って貰おうか,でもディズニーランドは西海岸,日程上無理だ。米国の地方には移民してきた民族だけの部落がある。例えば東京で活躍していた自動車専門の記者が米国の田舎に戻った,東京から訪ねて行った友人は,そこはユダヤ人だけで村で,独特の帽子やラビ(ユダヤ教指導者)の黒い服,長いヒゲの恰好で大昔ににタイムスリップしたような感じがしたと云っていた。このように米国の田舎にはスェーデン人だけの村,ハンガリー人だけの,ブルガリア人だけの村など独特の風習,祭り,フォークダンスがある。NYで一番大きいコミュニティーを持っているのはアイルランド人である,そしてアイリッシュダンスが有名である。このようなフォークダンスを見学していただいたらどうでしょうとアドバイスした事があった。ちなみに麻生太郎総理大臣の奥様は鈴木善幸氏の三女である。鈴木家は二人のファースト・レディを輩出したことになる。 反対に日本の外務省から相談されたのは,訪日するマーガレット・サッチャー英国首相に同行する御主人デニス・サッチャー氏をどうもてなしたら良いかとものであった。外務省としても女性首相の訪日は最初であり,同行する御主人をもてなすのも初めての経験であった。まさか外交プロトコール通りに,デニス・サッチャー氏に生け花の見学,日本舞踊の見学,茶道の御点前などのスケジュールを組む訳にはいかない。ちょうどその頃英国の諷刺週間誌 “Private Eye”に「Diary of Denis Thatcher」(デニス・サッチャーの日記)と云う日記形式の連載コラムが掲載されていた。いつもゴルフ友達のビルに宛てた手紙形式で,「Dear Bill! - 親愛なるビル!」で始まる。「マーガレットはフォークランド戦争をおっぱじめるらしいが,僕はフォークランドはどこにあるのか知らない,教えてくれ」などと無邪気で飾らない人柄が滲みでている。彼のもっぱらの関心事はゴルフである。この連載コラムのお陰で,デニス・サッチャー氏は英国で最も妻に誠実で,愛すべき夫として人気があり,鉄の首相マーガレット・サッチャー女史のマイナス面を補った。そこで外務省に日本でデニス・サッチャー氏をもてなすにはゴルフしかないと助言した。残念だったのはデニスが友人ビルに日本でのゴルフがどんな具合だったかPrivate Eye誌に書いた手紙を確かめ損なった。 それより前に外務省が,カナダの首相を国賓として招いていて,彼の奥様を招くのを忘れたと事件があった。これはピエール・トリド首相(1968―1979)の夫人のマーガレットが「私も招かれているの?」と彼女自ら外務省に尋ねてきたという。外務省が彼女の招待を忘れてしまうのにはそれなりの理由があった。当時50才のトリド首相が20代の若い女性マーガレットと結婚した事で話題になった。彼女はディスコティックやクラブで有名な俳優や歌手と浮き名を流し,特にローリングストーンのミックジャガーと不倫しているとゴシップ紙に書かれた。マーガレットが東京六本木のクラブのオープニングのテープカットに来た時会った事がある,丁度ヒルトン姉妹のような軽薄な女性だと云う印象を受けた。そのクラブが何かと云う胡散くさい会社が経営していたので,一国の首相夫人が何故?と思った,知名度を利用されているような気がした。彼女が東京のディスコやクラブを練り歩いていた時,訪日中の米国を代表する現代アートの旗手アンディ・ウオーホ-ルと出会ったという。二人とも自分は有名人だと自認しているので,二人で出歩けば注目を浴びるはずだと高級レストランに入った。お互いに自分の方が有名だから,それを利用する相手が食事代を払うべきだと思っていた。いざ支払と云う段になって,両人ともお金を全く持ち合わせていなかったと云う話を聞いた。きっと当時の外務省はマ―ガレットをセレブな芸能人として認識していたのであろう。ピエール・トルド首相はモントリオール大学,ハーバード大学,シェスポ,ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスなどを卒業している学究派である,若い奥さんには手こずったようだ。1984年にマーガレットと離婚している。 女王に随行して一番自然で威厳を保っていたのが英国のエジンバラ公であった。いつもユーモラスなコメントをして周囲を笑わせていた。私は初めて英国の新聞の記者としてエリザベス女王の京都伊勢志摩の旅行に随行したが,日本側が「昭和天皇は安全の為召し上がるものは全て煮沸消毒する,だから天皇陛下はアイスクリームを食べた事がない」と説明した。それを聞いたエジンバラ公は志摩のホテルの女性従業員を指差して,彼女らも煮沸消毒してあるの?とからかったと云う。宮内庁は桂離宮の入り口は緑のリボン,庭は赤いリボン,池は黄色いリボンをつけた記者とカメラマンだけが取材出来ると制限した。しかし,英国からの随行記者団は全ての場所を1人で取材する,従って京都の寺中を回ると体中リボンだらけになった。女王一行が伊勢志摩の訪問を終え,名古屋駅で近畿日本鉄道から新幹線に乗り換える時,先に新幹線に乗車していた英国ジャーナリスト達が今回の旅行で宮内庁から配られたおびただしい数のリボンを腰に飾りつけ,窓の外を威厳を持って歩くエリザベス女王とエジンバラ公に腰をくねらせ,リボンをひらひら振って見せた。すると女王は駅のプラットフォームに背の高い長椅子があり,反対側にいる日本人に見られないと判断して,英国人ジャーナリスト達の窓に近寄り,リボンを指差して,女王はフラダンスの様に腰を振って,エジンバラ公と笑いこけていた。そしてすぐ威厳を取戻し,新幹線に乗車した。信じられないような一瞬の光景であった。 この旅行中,私は私の被っている帽子に対してエジンバラ公の視線を感じる事があった。黒いキャップで学生帽の様なもので,当時の映画「ドクトル・ジバゴ」(ロシアの文豪パステルナークの大河小説,ロシア革命前後の医者ジバゴの恋愛小説をデ-ビッド・リ-ン監督が1965年映画化)の中で,革命運動の学生達が被っていた黒いキャップが格好良くて,それに似たものを被って女王様一行のの旅行に随行した。ひょっとして私はエジンバラ公を過激派の学生か何かと警戒させ,不安を抱かせてしまったかもと反省していた。数年して英国大使館のエジンバラ公の通訳をした外交官と話をしていたら,やはりエジンバラ公は私のキャップに興味を持ち,なぜあの日本女性はギリシャ海軍の水兵帽を被っているのかと不思議がっていたと云う。実はこの帽子はイタリアを旅行した時,フランスとギリシャの水兵達が酔っぱらって殴り合いの喧嘩をしているところに行き会わせた。水兵達が警察官に連行されて行った跡にこの水兵帽が落ちていた。欲しくて仕方ない格好の黒いキャップである。拾って,脱兎のごとく人込に逃げ込んだと云う曰く付きのものだ。エジンバラ公が気が付くまで,この帽子がフランス海軍のものか,ギリシャ海軍のものか分らずにいた。鋲には錨のようなものが彫ってあるが,今ではすっかり錆び付いている。 ずっと後でエジンバラ公がこの水兵帽に格別の思いを抱く理由が分った。エジンバラ公は1921年ギリシャ,イオニア諸島,コルフ島生まれ,1年後ギリシャでクーデターが起き,革命政府は国王とその弟の父親に死刑の宣告,イギリス海軍の助けで,ギリシャ脱出,1928年渡英,1939年海軍兵学校卒業,イギリスの海軍に入隊,数々の作戦に参加。1947年,英国帰化,母方のマウントバッテンの姓を名乗り,ギリシャ正教を捨て,英国国教会に改宗,従って,ギリシャおよびデンマークの王子の地位を放棄した。イギリス国王ジョージ6世の第一王女エリザベスと結婚,エジンバラ公爵の名が授与された。もしギリシャに革命が起きなかったら,エジンバラ公はギリシャ海軍総督になっていたかもしれない。 この黒いキャップはさらに問題を引き起こした。ある夏休みスコットランドのロックローモンド湖畔にあるハリソン・クライドと云う海運王の家に数日間泊まり,アイルランドのDonegal(ドネガル地方,北西アイルランド)にある友人の家を訪ねる事になった。友人は英国人で,風光明美なこの地にホテルを買い,ホテルビジネスをする予定であったが,アイルランド紛争が激しくなり,時々訪れるアイルランド旅行客だけがお客であった。友人が指定したルート通り,スコットランド・グラスゴー空港からベルファーストに飛ぶ事になった。先ずグラスゴー空港で3時間の足留めを食らった。IRAが飛行機に爆弾を仕掛けたという情報で警察犬を使って丹念に調べ,荷物まで調べられた。ベルファーストから列車でロンドンデリーに向った。今考えると,紛争の一番激しい北アイルランドのベルファーストや,ロンドンデリーに良く行く気になったものだ。本当に無知とは恐ろしいものだ。北アイルランド人はロンドンデリーという呼名は英国を表すので「Derry, デリー」と呼ぶ。デリ-駅で降りたのは数人であった。私はここで友人を待つ予定であったが,グラスゴーで足留めされたので3時間遅れている。駅はすぐシャッターを降ろし,鍵をかけ,駅舎内で待つ事は許されなかった。友人はどこかに避難しているのであろう。駅の近くを流れるRiver Foyle河に架かる橋を渡り,パブでも探そうと甘い考えを持った私は,平和惚け日本からきた大馬鹿者であった。通りは戦争の真最中,先方から軍隊が銃を構えてザッザッザと駈けてくる。本物の銃声は映画の様に重い音でなく,爆竹のような乾いた音で,私の足許で土煙をたてている。慌てて駅に戻ると,列車の中で見かけた男性が戻ってきて,ここは危険だ,友人が来るまで,私の家に避難しなさいと自宅に招いてくれた。彼の家には若い北アイルランド人(多分IRA)が数人銃を手入れしていた。こんな若い青年に銃を与えるなんて,彼らはまるで子供の玩具のように銃で遊んでいる。質問されたが,彼らは訛が強く,ブルガリア語,デンマーク語?のように聞こえ,全く理解出来なかった。実はこの週に,「反帝国主義世界大会」がこの町で開かれるという,私が例の黒いキャップを被っていた為,日本の過激派の活動家がこの大会に出席してくれたと勘違いされたらしい。「チェ・ゲバラが被る黒のベレーでなく,水兵の帽子だ」と説明しなければならなかった。何とか友人と電話連絡がとれ,この家に迎えに来て貰ったが,ドネガルに向う途中でも,草むらで匍匐前進していた兵士に銃を突き付けられ車を止められた。荷物を調べられたが,お土産にとスコットランドで手に入れたシングルモルトのウイスキ-(グレンモランジーと云うスモークの強いウイスキーで,英国の通に人気がある)しか入っていない,仕方がないが,それ兵士にを渡して,放免して貰った。友人の奥さんから,帰りは1人でバスに乗って(1日一回運行)デリーに戻ってと云われた。英国人である御主人を危険なデリーなんぞに行かせたくないというのだ。私が訪れた時はドネガル地方はカソリックも,プロテスタントも平和に暮らしているように見えた。しかし,その直後マウントバッテン卿(第二次大戦中連合軍の東南アジア総司令官,エディンバラ公の叔父)がドネガル湾でIRAによってヨットに仕掛けられた爆弾で暗殺された。友人の奥さんが怖がるのも無理もない。私が学んだ事は紛争地域を訪れる時は,黒ベレーとか,危険な政治的メッセージが書かれたTシャツ,迷彩色の上衣(タイでは今年から迷彩色の上衣を着ていると逮捕される。軍隊と紛らわしいからだ)を着て行かない事だ。 終 柴田 |
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