ジャーナリストのパソコンノートブック
(50)私の戦争

    毎年8月になると第二次世界大戦,それと終戦に至る迄の悲惨な報道が新聞,TVを埋め尽く,なんともやり切れない思いをする。私にとって実感の伴う戦争はベトナム戦争である。ベトナム戦争が一番激しい時期米国のABC TVの東京支局に就職した為,報道の前線基地に立たされた。1970年代初頭米国のTV局はベトナムから米国に直接衛星中継放送は出来ないので,その日の戦況を撮影したフィルムを東京に空輸し,現像,編集して,米国の夜のゴールデンタイムのニュースに合わせ衛星中継放送を流すのである。撮影されたフィルムは民間機の事もあれば軍用機で運ばれる事もあった。到着は羽田空港,横田基地,昔のキャンプ座間 など日によってまちまちであった。運ばれたフィルムはインターナショナル・エクスプレスという会社が通関手続きを行ない,現像所までオートバイ搬送と云う事になる。当時現像は東洋現像所一社しかなく,現像に一時間かかった。米国の三大TV局 (ABC, CBS, NBC)はいかにして最初に東洋現像にフィルムを持ち込むかしのぎを削った。最初に持ち込まなかったら,衛星放送は一時間遅れる事になるからである。真夜中の高速道路を3大TV局のフィルムを運ぶオートバイ同士の壮絶な競争となった。現像されたフィルムは日本のTV局のスタジオを借りて,朝までに5分なり,10分の長さに編集され,米国の夜のTVニュースとして流された。米国で夜の家族団欒時のTVニュースである事に配慮し,又当時強まる一方のベトナム反戦争運動の厭戦気分を刺激しない様,残酷な場面のフィルムは切り捨てられた。例えば戦死した米兵をトラックに積んでいる光景である。死体袋が間に合わないのか,硬直した半裸の死体をトラックの荷台に投げ込んで行く,人間の尊厳なんてどこにもない,米兵の肌の白さと怪我からの出血の対比が目に焼きつく。最近,この光景のフラッシュバックが起きた。英国や米国での狂牛病のTV報道で,屠殺場で吊るされた牛肉の赤と白のコントラストが30年前の米兵の死体の光景を呼び起した。また銃撃されて倒れている兵士を運ぼうとすると,兵士の内蔵が全て路上に残されているといった映像である。この編集の仕事を手伝っていて,無惨さにショックを受け,その後一週間ぐらい食べ物が喉を通らなくなるが,衛星放送の仕事は連日続いた。   
  
    1975年の5月のゴールデンウイークは外国特派員クラブは夫が無事にサイゴンを脱出出来たかどうか,確かめようとする特派員の奥さん達でごった返していた。4月30日サイゴン陥落時に,米国大使館屋上から脱出したヘリコプターに辛うじてぶら下がっている特派員を仲間が引き上げたとか,サイゴンの沖合いで待機していた航空母艦の上で見掛けたとか,特派員の奥さん達は必死で夫の無事を伝える情報を集めようとしていた。東京特派員でサイゴン陥落の最後の日まで残っていたつわものは十数名に達した。全員サイゴンのカラベルホテルに集まり,脱出用のバスを待っていた。三台のバスは脱出しようとするべトナム人で一杯になったという。当時の特派員の話では,バスが米大使館に到着すると,ベトナム人の群集がヘリコプタ?で一緒に連れて行ってくれと殺到して,特派員達は大使館の鋼鉄のゲートにも近寄れなかったという。特派員達はその時点で,理性を捨てて,ただの戦う男に成り果て,すがってくるベトナム人をなぐったり,蹴飛ばしたりして,海兵隊員の助けを借りて,大使館屋上のヘリコプタ?にたどり着いたという。この日,米国は,ヘリコプターを総動員して,ベトナム在住の米軍関係者,ビジネスマン,彼らの家族,ベトナムの政府高官などをサイゴンの沖合いに停泊させた大型艦艇,航空母艦などに運ぶ脱出作戦を展開した。4月中旬には民間の飛行機は運航を停止しており,サイゴンのタンソンニャット空港は北ベトナムの攻撃を受け,軍用機は使用できなかった。脱出時の混乱はなんとも情けなく見苦しいものであった。航空母艦の上に脱出者を運ぶヘリコプターが降りる場所がないと云う事で,ヘリコプターは脱出者を降ろしたら直ぐ皆で押して海中に投げ入れ,次のヘリコプターの降りる場所を空けたと云う。それ迄,情報統制で勇ましい米軍の活動しか見て来なかった米国民,いや世界の人々にとって,TVで写された米軍の惨めな大敗走シーンは衝撃的であった。この時サイゴンに残留していた日本人は置いて行かれた。日本は参戦していないので,北ベトナム軍は日本人にはひどい事をしないであろうというのが米国の云い分だ。しかし,米軍と共に戦った韓国軍隊は置いて行かれ,北ベトナム軍の捕虜となり,ひどい目にあった,韓国の米国に対する不信はこの時芽生えたという。もし沖縄が攻撃を受けるような事があるとして,米軍は自分達の脱出だけで精一杯で,沖縄の住民の脱出を助けるような事はしないであろうと思った。
    
   サイゴン陥落の前夜のカラベルホテルの最上階のバーでの出来事は衝撃的であった。北ベトナム軍がサイゴン郊外に迫り,窓の外の爆撃の大音響と閃光の恐怖を紛らわす為に,特派員達は皆強い酒で酩酊していた。その夜はそれまで一緒に米国に連れて行ってくれとしつこくせがんでいた長い黒髪,きゃしゃな身体を超ミニの衣服に包んだベトナム人の娼婦達は諦めたのか1人,2人と闇に消え去って行った。ミス・サイゴンは髪の毛をザンバラに切り,眉を剃り落とし,自分で前歯を数本折り,汚れた農婦の衣服で消えて行ったという。またあるミス・サイゴンはボイラー室の灰を頭に被り,ススを顔や手足になすり付け,老婆に変装して消えていったという。以前ロバート・キャパの写真集で第二次大戦直後,ドイツの占領から開放されたパリで,敵のドイツ兵の相手をしたフランス人娼婦が隣人達に頭を丸坊主され,市中引き回しという辱めを受けている作品を見た事があった。モノクロ写真で,真っ白い丸坊主頭が目に焼きついた。ミス・サイゴンと呼ばれた娼婦に対しては親米ベトナム人として厳しい罰則が科される事は確かであり,人民裁判にかけられ処刑されるか,又は強制収容所送りになったのではないかと云う事である。 
 
   たった一つ残念だった事は,ロンドンタイムス紙の東京特派員ピーター・ヘーゼルハーストから聞いた話だ。彼はサイゴン陥落前日,激しく飛び交う銃弾を避ける為に土管に飛び込んだところ,もう1人のジャーナリストの先客がいた。シバタヨーコを知っているか?と聞かれた。するとその記者はもし自分が死んだら,彼女に僕の名前を伝え,好きだったと伝えてくれと頼まれたという。私はそれが誰なのか全然見当も付かず,そのロマンティックな記者の名前を是非とも知りたい,教えてくれとピーターにせがんだが,その記者は死ななかったので,名前を教えられないと,いまだに分らず終いである。それ以前に 香港を舞台にした 米国人記者(ウイリアム・ホールデン)と中英混血の女医(ジェニファー・ジョーンズ)の恋愛を描いた「慕情」という映画があり,この記者は朝鮮戦争で命を落とす悲恋である。この映画に影響を受けたというより,東京の外国特派員クラブには朝鮮戦争で命を落とした新聞記者20名の名前を刻んだ真鍮のプレートが飾ってあるが,従軍記者が命を落とすのは当時現実の問題であったのだ。慕情の(実際の)主人公は英国人記者であったという。そう云えば,明日ベトナム取材に行くんだけれど,僕が死んだら,泣いてくれる?などと冗談とも付かない電話を貰った事が数回あった。当時精神的余裕のなかった私は,彼らの心細さを慮る事も出来ず「ばっかじゃない,貴方はウイリアム・ホールデンとは似てないじゃない」と素っ気無い返事をした。どうも私は現実的な人間で,人生これが最後と云う時,愛する人,愛する家族の事を考える事が出来ない様だ。以前グランドキャニオンを遊覧飛行している時,小型機のエンジンが止まってしまった。パイロットはエアー・ネバダという会社のパンフレットのモデルになるくらい若くて可愛い女性であったが,操縦技術は駄目であった。何とかしようと焦る彼女の薄い水色の制服は冷や汗で濃紺に変っていた。私の隣に座っていた台湾からのお婆さんは,数珠で南無阿弥陀仏とお経を唱えていたが,恐怖で失神し,私の腕の中に倒れこんできた。こんな時,私はひどく現実的な心配をしていた。東京の自宅のタンスの引き出しの中のパンティーはきれいにたたんで来たかしら,出てくる時慌てて来たので,汚れた食器を台所に出しぱなしにしてきたのではなかったかとつまらない事考えていた。グランドキャニオンの谷底からの上昇気流に乗って,40分位グライダー飛行して,エンジンは何とか修理出来た。一方ピーター・ヘーゼルハーストの奥さんは夫がサイゴンに行く前に書いた遺書らしき手紙に「自分が死んだら,財産は全て,ペットのブルテリア犬に譲る」と書いてあったと怒っていた。いかにも英国人らしいピーターの照れ隠しである。
   
   ただ共産主義の拡大からベトナムを守ると云う大儀名目の為に,米国は遠いインドシナの国に戦争を仕掛け100万人のベトナム人を殺害し,58,000人の米国の若者の命も失った。何の為に戦っているのかという批判を受けた。ボーイング,ロッキード,マグダネル・ダグラス,ヒューズ.エアークラフトなど軍需産業に大きな利益をもたらしただけである。私にとって,米国のTV局のベトナム戦争報道は大本営発表のような政府に統制されたものだと思っていたが,実はメディア側の自主規制であったという。ベトナム戦争は一般メディア報道に開放した歴史上唯一の戦争だと云われている,北ベトナム,アメリカ双方が従軍記者の同行を許した。TV,新聞,雑誌は連日戦争の悲惨さを全世界に伝えた。草の根運動のように起きた反戦運動は,高揚し,戦場での士気の低下を招いた。米国は1973年に徴兵制度を廃止している。ベトナムからの帰還兵は非難,中傷を浴び,それが社会問題化していた。私が覚えているのは私のダーツのチームに,米国大使館のミリタリー・アタッシェ(軍関係の随行員)が参加してきた。チームの英国の銀行員や米国人記者はこの男を怖がった,「だって彼はベトナム帰りのマリーン(海兵隊員)だぜ!ビールを飲んで,錯乱を起し,ちょっとした物音でジャングルでの戦闘のフラッシュバックが起き,日本人の客をベトコンと間違え,喉をかっ切るかもしれない」と殺人鬼の様に云う。確かにこの元海兵隊員は,精神安定薬かなにかで,無理に抑えているような眠たい目をしていた。ある日ベトナムで長く取材をしていた米国人記者が一杯飲まないかと電話して来た。東京駅のステーションホテルのバーを指定する。今では東京駅のホテルはレトロで素晴しいと思うが,当時の私はミーハーで,なんてダサイ場所だ,私は毎日東京駅を通勤に利用しているので,嫌だと断った。その記者はとベトナムで砲撃のごう音,爆弾の炸裂でビルが揺れ,壁が剥がれ落ちてくる中で,酒を飲むクセが付いているので,東京駅の列車の軋む音,ガタコトする音,線路からの振動などがサイゴンの爆撃を思い起こさせてくれる唯一の場所だからと云っていた。この記者も戦争の後遺症を患っていると思った。
   
    ベトナム戦争で従軍記者に戦場取材を開放した為,反戦運動を招いてしまった米軍は戦場報道の重要性を認識し,1990年の湾岸戦争では徹底したメディア・コントロールを行なった。この戦争は初めてリアルタイムにTV局のCNNがトマホーク巡行ミサイルがまるでゲームの様に正確に目標に命中するのを実況中継した。ヨーロッパではこの「沙漠の嵐」作戦を,まるで日本の任天堂のゲームのようであるので「ニンテンドー戦争」と呼んだ。戦場は沙漠であるので,従軍記者は戦車の護衛なく勝手な行動は許されず,指令本部発表をそのまま伝えるしかなかった。ベトナム戦争後,死者の数の発表は控えられた。記者会見で,イラク側にどれだけ死傷者がでたかの質問も許されず,質問した記者はその後の記者会見から閉め出された。イラク人の死亡者は10万から15万人に上るとみられている。米国メディアも情けない,大本営発表の情報を鵜呑みにして報道する以外になかった。ペルシャ湾で(退却する)イラク軍が重油を流し,重油まみれになった鳥の映像を度々流し,湾岸戦争に疑問を持ち始めた米国民の同情を買い, 世論を反イラクに導いた。このフィルムはずっと以前の石油タンカー事故の映像であり,このフィルムを作ったCM会社は巨額の報酬を米軍から貰ったという。又米議会で10才のクエートの少女が証言台に立ち,病院に攻め込んで来たイラク兵が赤ん坊を床に叩き付けて殺したと涙ながらに語った。しかし,後にこの少女は在米クエート大使の娘でクエートには行った事がない事が判明した。しかし,この少女の証言で米国の世論は反イラクに傾いた。
   
  イラク戦争(2003年3月?)は米英がイラクが大量破壊兵器を保有していると無理矢理に大儀名分を作り,侵略をはじめたが,それは誤報であり,イラクは同時多発テロにも,アルカイダにも関与していなかった。米国は最新鋭の兵器,GPS誘導爆弾,レーザー誘導爆弾を導入して,効率的な攻撃をして,3ヶ月後の6月に早々と戦闘終結宣言を出し,圧倒的な米国の軍事力のイメージを世界に見せしめた。しかし,戦争はブッシュ大統領の目論んだようには行かなかった。その後,インフラ不足,食料不足でイラク国民の反発を買い,治安悪化,シーア派,スンニ派,クルド人など武装勢力の抗争が続き,旧イラク軍が地下に潜り,銃撃,爆弾,ロケット砲,車爆弾,自爆テロなど執拗な攻撃が続き,戦闘終結宣言後に米軍はは多くの死傷者を出し,4,000人に達した。一方,米国のメディアはイラクの民間人の犠牲者の悲劇を見て見ぬふりをしている,イラク市民の犠牲者は最大112万人にも達すると云う数字もある,これは15年続いたベトナム戦争より多い犠牲者だ。攻撃を仕掛ける米軍の方はゲーム感覚でボタンを押すだけで手を汚さない効率的攻撃でも,攻撃を受けた民間人の惨劇は目を覆うばかりだ。テロリストの掃討作戦の結果を調べる為に,民間人の住居に入った戦闘隊員が見つけたのは母親と子供達の死体,床に散乱する,子供用の小さな靴やおもちゃなどで,この非人道的光景は米戦闘隊員に罪悪感をもたらし,強烈な精神障害を起す,睡眠障害,アルコール依存症などに悩む。彼らは従軍カウンセラーの診断を受ける。いつテロ攻撃されるか分らないと云う極度の緊張感,生々しい戦闘の被害現場が彼らをうつ状態に追いやる。プロザックや,ゾロフトの抗うつ剤の処方をうけて,前線に復帰する。米国は徴兵制を廃止したので,神経を病んでいるとは言え,彼らは米国軍の貴重なな戦力である,治療薬を飲みながらの戦闘である。今年6月のタイム誌によるとイラクに派遣された戦闘隊員の12%,アフガニスタンの戦闘隊員の17%が抗うつ剤などの処方箋を受けていると云う調査結果が発表された。ランド研究所の調査ではPTSD(心的外傷ストレス症候)に苦しむ兵士も多く,アフガン・イラクからの帰還兵300,000の内20%がPTSDの治療を受けており,治療負担は62億ドル(6200億円)に上る。そのうち,164人が自殺している。
    
    米国の手を汚さない効率的な攻撃の典型的な例が原爆の広島,長崎への投下だ。古い記録映画では当時原爆を開発した学者達が,いかにしたら効率的に日本人を大量に殺せるかとしきりに口にしていたのが気になる。戦争末期で広島や長崎に残っていたのは,老人,女,子供ばかりであるのは彼らも知っていたはずである。彼らが原爆投下直後に広島,長崎を訪れ,地獄のような惨状を目にしたら,その非人道性に一生PTSDに苦しみ,抗うつ剤のお世話になっていただろう。原爆を落としたエノラゲイ機の乗り組み員も投下直後の広島を見たら,「原爆が戦争を終わらせた」などと正当化する陳腐な発言は出来なかったと思う。終戦直後米軍の調査団として長崎の被害の写真を取りに来たカメラマンのジョー・オグネルは撮影を禁止されていた民間人の写真30枚撮り,隠しておいた。長崎で見た惨状を忘れようとこれら写真を30枚トランクに封印したが,記憶は彼を一生苦しめた。30年後に核兵器の非人道性を訴えるために原爆の写真を発表し,「非国民」と全米の非難を浴びた。今彼の息子がその運動を引き継いでいる。


      (終),柴田



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