ジャーナリストのパソコンノートブック |
(44)意外な側面 |
ジャーナリストとして,しかも外国のメディアの特派員として日本の政治家や企業トップと接すると,彼らは外国特派員をどう扱ってよいのか戸惑を見せる,その時意外な人間的な側面を垣間見せる。 一番意外であったのが岸信介元首相であった。私がお会いしたのはも1979年で政界を引退されていた。岸首相は人口問題に取り組み,国連から日本人で初の国連平和賞を授けられた。その事でフィナンシャル・タイムスの編集長から人口問題に関して岸元首相にインタビューをしろと云う指示が特派員にきた。そこで岸信介元首相をインタビューする特派員の通訳として付いて行くことになった。 岸信介首相というと,私達1960年代後半の大学生には天敵のような存在であった。私はノンポリでデモに参加した事はなかったが,早稲田ロシア文学部の同級生のほとんどがデモに明け暮れていた。女子学生は何日もの座り込みデモで,頭にわら屑等を付けて雀の巣のような髪で登校してきた。評論家の立花隆さんによると岸元首相は1960年の日米安保条約の締結の為に何万人もの暴力団,テキヤ,右翼等を国会に入れる強権発動した唯一の首相であると云う。前安部普三首相は岸首相の孫である。だから1960年の安保闘争当時,渋谷松涛町の岸首相邸でお爺さんに膝にだっこされていた幼児の安部前首相は,屋敷の外を行進するデモ隊の怒号を聞いて,自分達こそ犠牲者だと云う思いを抱いていたのではと立花隆氏は語る。 私は昭和の妖怪という岸元首相はどんな人間かと少し身構えて応接室に入った。しかし,そこには圧倒的な存在感を持ったあの岸首相の顔があった。シミ一つない血色良い顔で首相時代の暗いイメージはどこにもなかった。岸元首相は日本の戦後経済復興に力を尽くしてくれたG.ドレーパー博士と共に東南アジアを回り,開発途上国の人口爆発の悲惨さを視察して,国際人口問題議員懇談会を設立したという。政府の対外援助費を使い,避妊具をインド,バングラディッシュ,スリランカ,インドネシアなどの人口過密国に供与した。資金援助ではどう使われるか分らないので,避妊具の現物を供与する方式をとったという。私は当時避妊具を英語でどう云うか調べてなかったので,慌てて辞書を引き「Contraceptive, コントラセプティブ」であると理解した。しかし首相はコンドームを連発していたので,特派員には通訳は必要ななかったと思う。岸元首相によると日本製の避妊具は質が良いので,ヨーロッパ等の海外の市場で高く売れる。幾ら現物供与してもすぐブラックマーケットに流れてしまうと問題点を話しておられた。そして,日本の避妊具には薄くても,穴が空きにく,伸長性がよいなど優秀性を延々と述べられていた。一国の首相を2期も勤め上げられた方が,まるでオカモトの避妊具セールスマンのように製品の良さを宣伝している,昭和の妖怪はどこにいってしまったのか?と可笑しかった。 僕は明治38年生まれなので,今年38才,永遠の青年だと同じジョークを繰り返していたのが,71才で第67代の首相に就任した福田赳夫首相である,現在の福田康男首相のお父様である。福田赳夫氏は小泉首相に似た親しみやすさがあった。当時のファイナンシャル・タイムスは福田赳夫首相に随分失礼な事を度々した。まず首相就任時の記事に載せた写真が現在のMazda,旧東洋工業の松田社長の顔写真であった,年配で,細面,外国人には福田赳夫首相と区別が付かなかったらしい。それから記事中に福田首相の名前が出る度に,FukudaというスペルをFuckdaとcを加えられていた。1985年当時日本や米国ではコンピュータ製版が始まっていたが,英国ではグーテンベルグが15世紀に発明した当時から使っているような鉛の活字を拾って活版を作る印刷方法であった。編集長が直々印刷現場に降りてゆき,ゲラ刷りをチェックしても,印刷工はその後で”c”の活字をを加えてしまった。一つの真面目な経済記事に13回もFuckdaとスペルを変えてある。松田社長の写真を間違えた時,又スペルを間違えた度に外務省に謝りに出掛けた。 その福田赳夫首相が外国特派員クラブの昼食会にきてスピーチをするという。当時72才の首相は僕は明治38年生まれ,僕は38才と相変わらずの自分紹介をした。首相のスピーチの後特派員達が次々と質問した。すると千葉敦子さん(故人)が質問をする為立上がり,首相の前のマイクロフォンまで歩み寄った。彼女は外国特派員協会の正会員と認められたばかりでかなり気負っていた。質問自体は日本国債に付いての真面目なものであった。しかし一番前の席に陣取っていた私には福田赳夫首相が隣の秘書官に囁いた言葉が聞こえてきた。きっと周りは外国人ばかりだから,日本語なら大丈夫だと思ったのであろう。質問者の千葉さんについて,「この人のおっぱいの先,真っ黒だね!」と聞こえた。当時千葉敦子女史は公衆の面前でブラジャーなどを焼き捨てる等の米国のウーマンズ・リブの洗礼を受け,かなり戦闘的であった。この日の質問のために念入りに準備をしてきたのであろうか,私は逆光になって気が付かなかったが,薄手の淡いピンクのセーターを下着無しで身に付けたので,シースルー状態になっていたらしい。福田赳夫首相が云った事が理解できたのは,この後外務相報道局長の定例記者会見に出掛けた時,相乗りしたタクシー内での特派員達の議論であった。千葉さんのあの格好では首相に失礼だという年配のヨーロッパ特派員もいれば,もう少し若ければ,彼女の胸も鑑賞に耐えるけれど等という議論であった。福田赳夫首相の言葉を聞いたのは私だけだが,枯れて見えた福田赳夫首相もやはり男だなーと云うのが私の感想であった。 企業トップや政治家の中には,周囲のおべっか,耳に心地よい話だけ聞き入れ,裸の王さま状態の人がいる。私は偶然手にした英国からの情報で「貴方の会社が一週間後に欧米の会社に敵対的企業買収を仕掛けられますよ!」と警告の電話をしてやったのに,「馬鹿やろう!うちが乗っ取られるはずがない!」と怒鳴って,何の対策も取らなかったのがミネベアの高橋高見社長である。この時代の通信手段はファックスであった,これは誤配が多く,情報の漏洩が多かった。当時フィナンシャル・タイムスの特派員事務所があった大手町地区は電話番号の地域コードが同じ為か,近所の英国の銀行の東京支店に本社から「飲み代の経費がかさみ過ぎる」とかのファックスが数回私の事務所に誤配された事があった。1985年の夏,英国の弁護士事務所らしいところから,私の事務所に誤配されてきたファックスが爆弾の様な情報をもたらした「米国のトラファルガー・ホールディングと英国のグレン・インターナショナルがミネベアに対しTOB(株式公開買い付け)を検討しているので,資料の準備をするように」と云う内部メモのようであった。ミネベアの高橋高見社長はスイスで多額の転換社債を発行した。ここで調達した資金を使って,海外で次々と企業を買収し多国籍企業に成長した。彼は海外の経済誌がミネベアの奇跡的成長とか誉めたたえる記事がお気に入りで,そのような記者には海外の工場見学とか大名旅行のような取材旅行を用意した。オーストラリアの記者は社長の軽井沢の別荘にヘリコプターで招待されたと云う。しかし,海外の金融市場に影響力のあるフィナンシャル・タイムスがミネベアの海外での買収の成功を取り上げてくれない。東京事務所のシバタ・ヨ?コは味気ない決算記事しか書いてくれない,凄く不満だ,英国人のボスにシバタ・ヨ?コが嫌いだとまで云った。私はおべっか記事ばかりを書くのが特派員の仕事ではない,事実を書くだけだと自分に納得させた。しかし,得意の絶頂にあった高見社長にも付け込まれる隙があった。海外で発行した転換社債の株式23%分が英国のグレン・インターナショナルに買い占められた。これは日本で初めての本格的TOBだと大騒ぎになった。 このホットな情報を一週間前に手にしながら,東京の特派員事務所は何から手を付けていいか分らなかった。ミネベアの高橋社長に伝えても,本人は信じようともしない。英米の2社がTOBを通達してくるまで,ポイゾン・ピル等のTOB防衛手段なんて書けない。仕方がないので,日経新聞の証券部のトップにこのファックスを見せて,証券部の豊富な人材を使って調べて貰おうとしたが,やはり相手が見えないので,どうしようもなかった。一週間後東証で英米2社の香港の代理人が訪日し,東証で記者発表があると集まった証券記者クラブの面々も,私を除いて誰1人何の発表があるか予想も付かなかった。その後,日経の証券部のトップと出会う度に,あの時は申し訳なかった,せっかくの貴重な情報が生かせなかったと謝まられた。1985年当時,日本企業は企業間の株の持ち合いで,安定株主が多く,TOBは不可能と思われていたので,トラファルガーとグレンのミネベア株の転換社債で買い集めるなんて見事だと海外の金融市場では称賛を浴びた。株を買い集めた英国のグレン社のラムズデン代表等はすっかり名士になって,女王陛下のパーティにまで招かれている。当時日本ではTOB (株式公開買い付け)は海外で行なわれているもので,日本企業には関係がないものだと思っていた。私にしても,日経の証券部のトップにしても,TOBの行使に向けて株価が高騰するので,ミネベア株を前もって買っておこうなんて,考えも及ばなかった,もったいない事をした。この場合,私は完全なるアウトサイダーなので,インサイダー取引規制に触れない,千載一遇のチャンスを逃した。 同じように裸の王様状態であったのが田中角栄元首相 (1972?1974)であった。田中首相は日本の大新聞の記者を巧妙に操って首相に批判的な記事は書けないようにしていた。田中番の記者が首相の地方遊説に同行する時,部屋には高級万年筆や,高級腕時計が届けられていたという。新聞社側も社内の人事異動は首相に覚えめでたい田中番の記者はそのままにして,周りの記者だけを異動させるという田中シフトを敷いていた。しかし,雑誌記者や外国特派員にまで口封じは出来なかった。1974年10月月刊文芸春秋に立花隆さんの「田中角栄の研究」という田中金脈問題を暴いたの論文が掲載された。私は連日,大新聞数紙を隅から隅まで読んでみたがどこにも立花隆さんの「田中角栄の研究」について言及した記事はなかった。 そして運命の1974年10月22日,田中角栄首相が外国特派員協会の昼食会に出席した。ここに田中首相と彼の秘書官達の大いなる誤算があった。首相官邸サイドは外国特派員は日本の新聞の田中番記者達と同じように飼いならされている,厳しい質問はしないであろう,ましてや,文芸春秋等に書いてあるセンセーショナルな記事に付いて質問しないであろうと高をくくっていた。外国特派員協会の正会員となったばかりの私は,目の前で田中首相の運命が坂道を転げ落ちるように,変って行く有り様を目の当たりにした。不運とか言い様のないのが,当日特派員クラブの会長のマックス・デズフォード(AP通信社)が夏休みで日本を離れていた事だ。代理で副会長のべラ・エリアス(ハンガリア国営通信特派員)が田中首相の紹介のスピーチを始めた。べラ・エリアス副会長は自分ではユーモアを持って話している積もりでも,洗練されておらず,最初から最後迄田中首相を侮辱する重苦しいものであった。出だしは「今発売されています文芸春秋の記事で金脈問題で話題になっています田中首相です」から始まり,貧しい農家の出身で,小学校卒ながら苦労して建築会社を起し,愛人を持ち,数々の汚職に関係しと個人攻撃に近いスピーチが続き,最後に今日のゲストの将来はきっとみじめなものになるでしょうと紹介を終わるなど信じられない位失礼なものであった。田中首相も失礼な紹介の仕方に,自分でも信じられないと同時通訳用のイアフォーンを叩いて確かめる動作をした。しかし,ふざけ過ぎて失礼な紹介スピーチのトーンと云うか,くだけた雰囲気がそれに続く特派員達の質問の方向性を決定ずけた。特派員達は文芸春秋の記事に書かれている愛人問題はどうなったとか,賄賂は受け取ったのかとか,同じ質問を繰り返した。9人の特派員が質問したが,その内6人が文芸春秋の記事についてであり,残り3人が核問題であった(非核三原則がその当時一番ホットな話題で,田中首相も答を用意していた)。遂に田中首相がプツンした。真っ赤な顔をして憤然として席を立った。ベラ・エリアスは特派員達の厳しい批判にさらされた。ヨーロッパの国々で自国の元首にこんな酷い紹介が許されるであろうか?,アジアだから,日本人だからこんなに失礼な紹介をした,彼は人種偏見論者だなどである。即座に22名の有志が外務省に対してお詫びの手紙を書いた。 しかし田中首相の運命の歯車はすでに坂道を転げ落ち始めていた。昼食会が終わり,タクシーで大手町の事務所に戻る途中,タクシー内で聞いたNHKのニュースがすでに田中首相が外国特派員協会で金脈問題について聞かれ,プッツンして昼食会を中座したと報じていた。日本の大新聞は田中首相の金脈問題について書きたくても,書けない,書きたくてウズウズしていた。しかし日本の大新聞はずるい,欧米の新聞がこの事をどう報道するか一晩待った。翌日から,田中首相がプッツンして昼食会を中座した事に付いてNYタイムスが,ワシントン・ポストが,ロンドン・タイムスがこんな記事を掲載していると間接報道を始めた。間接的報道をこわごわ数日続けてから,田中首相に対し一斉攻撃を始めた。田中首相は国会でも金銭問題で攻撃され,12月9日に内閣総辞職をした。もし,APのデズフォードが夏休みを取らずに,昼食会の紹介スピーチをしていたら,もし田中首相が特派員協会での昼食会を1ヵ月早く行なっていたら(文芸春秋の記事が出る前),こんな歴史的事件は起きなかっただろう。あれよあれよと運命のいたずらを目撃した日であった。 「終」 柴田
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