ジャーナリストのパソコンノートブック
(42)プリンセス ビジネス
 私はこれまで2人のヨーロッパのプリンセスに出会った。2人のプリンセスは私のフラットに泊まったことがあるが正反対の性格で,その後の人生を大きく分けた。最初のプリンセスはフランスのアラゴン公爵家の娘,プリンセス・マルキーズ・ベランジェー・ダラゴンで,元ロイター通信社の記者ローリーから1ヵ月ほど泊めてやってくれないかと頼まれた。当時若い女性でマンションに住んでいる人は少なかったので頼まれた訳だ。「プリンセスは有名なカメラマンのフィアンセで,彼がベトナム戦争の取材に行っている間,自分が預る事になった。自分の所に泊めたいが,自分は年寄りとは言え,男だから泊める事は出来ない」と云う英国紳士らしい理由であった。彼女の婚約者はマグナムという有名写真家集団に属し,かって美智子皇后が婚約した時,米国ライフ誌の表紙を飾ったが,その写真を撮った本人である。彼は最初フランスの名門公爵家のプリンセスと婚約したと興奮した手紙をローリーに書き送っている。彼女は,フランスでもスペインに近い地方の出身のためか,黒い髪をしており,ひどく小柄で,スミレ色をした大きな目を持った美しい女性であった。しかし,婚約者は戦場を動き回っている内に,彼女が足手まといになってきて,東京に置き去りにしたらしい。私の所に来た時は,自分が捨てられたのではないかと涙,涙の毎日で,寝られないからと云って睡眠薬や,精神安定剤を食事代わりに口にしていた。私も彼女が悲嘆にくれて自殺してしまうのではと寝ずに見守っていた。お人好しのローリーは彼女を元気付けようと,彼女に写真家として東京で自活する道を勧めた。その第一の仕事として彼女の家柄を使って,デビ・スカルノ夫人のインタビューをとった,全ての手はずを整え,私は日本の女性週刊誌のグラビアページの2ページ分予約し,彼女が撮った写真とインタビューを待つだけになっていた。しかし彼女は頭が痛いからと表れなかった。次にローリーが通訳までつけて用意した森花恵さんのインタビューもドタキャンした。さらにローリーは英国のサンデー・タイムス紙に記事と写真の掲載の契約をとり,彼女をベトナムの取材に送ると云って,現地でヘリコプターまでチャーターしたが,彼女は仕事のできる状態ではなかった。ローリーの人の良さに呆れてしまうことがさらに続いた。写真家の婚約者がメキシコに取材に云っている事が分り,彼女に航空券を買って会いに行かせたのである。ローリはメキシコから戻った彼女に英字新聞の社交欄に彼女の事を紹介する記事を載せた。英字紙の社交欄は大きな写真入りで「この写真を見ると彼女はまるでハリウッドの女優に見えるが,実はフランスの公爵家のプリンセス etc.etc」と紹介すると, 東京中の独身の外国人男性から電話がかかり始めた。「プリンセスを食事に招待したい」などである。しばらくすると,彼女の顔が明るくなり,目が輝き始めた。彼女は英国ガ?ディアン紙の特派員を好きになったらしい。彼女はこの記者と夕食のデートに出掛けた,しかし彼女は金を持っていない,そこで,ローリーが一緒に出掛け,ローリーが3人分の夕食代を支払うという馬鹿らしい事をしていた。プリンセスはある夕方ガ?ディアンの特派員に今直ぐどこかに出かけようと電話を掛けた。英国の新聞は夕方が締め切りで忙しい,彼が無理だと断ると外人特派員クラブに何度も電話が掛けて来る。「ヨーロッパで私の階級の女性の招待を断るなんて許されない」と高飛車に怒鳴る。 最後には「今すぐ来てくれなければ,これから自殺すると」脅かし始めた。ガ?ディアンの記者とロンドン・タイムスの記者は仲が良い,2人で英国人らしいドライなジョークを考えついた。私の家にいるプリンセスに電話して「自殺するって云っていたのに,まだ生きていたの?」とからかった。すると15分後に早稲田の私の家から,丸ノ内の特派員クラブまでタクシーで駆け付けたプリンセスは今まで椿姫のような弱々しさはどこに行ったのか,私のベランダにあったホウキを振り回し,ガ?ディアンの記者を追い回して,まるで魔法使いの老婆の様であった。こんなに元気になったなら,もう大丈夫私はローリーに彼女を引き取って貰う事にした。それから30年間ローリーは彼女の面倒を見るという悲惨な事になった。彼の年代の男性にとって,フランスの公爵家のプリンセスの面倒を見るのは男の見栄をくすぐる独特の響きがあるようで,友人達が今でもコンテッサ(公爵婦人)と一緒か?などと聞かれると,男冥利に尽きるという顔をしていた。ローリーはフェミニストで,作家の霧島洋子さんがシングルマザーとして子供を3人育てている時,翻訳の仕事を世話した。桐島さん息子の名前を恩人である彼から貰いローランドと名付けている。断っておくが,彼は霧島ローランドのbiological father (生物学的父親)ではない。朝日ジャーナルの編集長になった下村満子さんもローリーは英字新聞の上司として面倒を見た。ある時,桐島さん,下村さんの大先輩とローリーとの夕食会に私も末席を汚した。私達はローリーにそんな貧乏神のようなフランスのプリンセスと早く手を切るように勧めたが,ローリーはプリンセスを連れて物価の安い香港に逃がれた。香港の英国人の間で独特のニュアンスを持って語られる言葉に”He has gone to the islands” (島に行ってしまった),英国人が物価の安い香港島や九龍半島で食い潰し,さらに物価の安いランタオ島などの小さな島にに落ちのび,仕事もろくにせず,アルコール漬けになって落ちぶれた生活しているという意味である。ローリーとプリンセスはその後カリフォルニアに移り,映画の「Wine and Roses (酒とバラの日々,ジャック・レモンが出演したアル中の夫婦の映画)」そのものの生活を送った。死にかけていたのを救出されたと云う。 鬱状態の2人がが一緒に暮らすと,相乗効果で,さらにひどいアル中になる。この2人は東京にいる時から,今日は公害がひどいから,カラスの鳴き声がうるさいから等となんでも理由を付け酒を飲んでいた。

   五年ぐらい前ローリーが東京にふらりと戻ってきた。 昔書いた「Matsushita Phenomenon (松下現象)の本を,新しく書き直すという。昔の本は松下幸之助の経営精神を書いたもので,世界的ベストセラーになったが,現在のIT産業の松下の工場,研究所見学をして90才近い彼は理解出来ず諦めたようだ。彼は霧島洋子さんの家に泊まっていて迷惑がられた。ある日,下村さんからローリーを泊める事は出来ないと悲鳴のような電話を貰った。私も同情して彼にフリーの仕事の世話をしたが,ローリーがいまだにパリの精神病院でアル中性精神障害」で入院しているプリンセスの面倒を見ていると下村さんから聞き,これ以上彼に同情する事を止めた。とことんまでプリンセスの面倒を見るのは彼の選んだ生き方である。彼は好きな事をしたのだから,のたれ死んでも幸せであろう。彼はしばらく外国特派員クラブのグランドピアノの下で寝ていた,朝早くクラブに行った人が,トイレで濡れタオルで身体を拭いている彼を見かけたという。それからしばらくしてプレスクラブにかなりの借金を残して姿を消した。

    Archduchess Princes Michaela Hapsburg of Austria (オーストリア・ハプスブルグ家大皇女ミカエラ)と時代がかった名刺を作り,自分の家名を最大限に利用したのはハプスブルグ家の長女ミカエラであった。ある日スイスの特派員が20才ぐらいの若いプリンセスを連れて休暇から戻ってきた。金髪で,小柄なプリンセスはウイーンのシェーンブルグ宮殿に置いたら,そのまま情景に溶け込んでしまいそうな美しさであった。ハプスブルグ家からフランスのブルボン王家のルイ16世に14才で嫁いたマリ?アントワネットは彼女のような女性であっただろう。私も彼女と一緒にF1のカーレースや,食事等に良く出掛けた。すると外国特派員クラブに「プリンセス・ミカエラ・ハプスブルグ」と電話のページ(呼び出し)が頻繁に来るようになった。すると特派員達はその呼び出しに対して文句をつけるより,痛烈に皮肉くって対抗した。プリンス・ジョン・カーペンター,プリンセス・アン・シェパード,プリンス・ビリー・カーター等と特派員はお互いにプリンス,プリンセスなど肩書きを付けて呼び合った。王家の皇子,お姫さまであったら苗字にカ?ペンター(大工),シェパード(羊飼い),カーター(御者)などと云う職業を持った御先祖様はいないはずである。館内放送でプリンス・カーペンター等と呼び出す度にどっと笑いが沸き起きた。

  面白くないのは英国大使夫人であった,彼女は音楽,演劇等に造詣が深く,東京外国人アマチュア劇壇会長などの名誉職に付いていた。それが何も知らない20才のオーストリアのプリンセスに名誉職を奪われてしまったのである。それ以降大使夫人はミカエラの事を口にする度に「That defunct princes」,defunctはもう今は存在しない廃絶されたという意味で,「あの没落して,廃絶された王家のプリセス」と皮肉たっぷりに話すのを聞いた事がある。私はこのdefunctと云う表現を「これは頂き!」とすぐ自分の記事に使った。Defunct Japan National Raiway (今は存在しない国鉄)とか,defunct Yamaichi Securities (今は存在しない山一証券会社)などとその後この表現を記事に使う頻度が増えてきた。

  多分どこからかの圧力でからか,スイスの特派員は突然中東のアブダビに転勤する事が決まった。外国人であれ,女性はベールで顔を隠さなければ外を歩けない。ミカエラも彼に付いて中東にいけなかった。彼が東京を去ってから,彼女が自分のフラットを見つけるまでの短い間,私の家に居候した。先日歴史の本を読んでいて,面白い発見をした。ハプスブルグ家のマリーアントワネットはブルボン家のルイ16世に嫁いだが,疎外され,寂しい思いをしたという,当時宮廷の勢力はアラゴン公爵夫人が握っていたからと書いてあった。アラゴン公爵夫人とは,私の家で泣いていたベランジェーの御先祖様である。奇しくもベルサイユ宮殿の2大勢力の女性の子孫が東京の私の小さなフラットに泊まったことになる。恋人に去られてもミカエラは泣かなかった。彼女には商才があり,自分の家柄をとことん利用した。英字タウン紙の社交ページの米国人コラムニストが,自分はゲイであるにも拘わらず,彼女を利用した。 毎号「プリンセス・ミカエラ・ハプスブルグと僕」などとパーティの写真を数ページに渡って掲載したこともある。彼女にはニナ・リッチなどの化粧品の広報,イメージ・ガールの仕事が舞い込んでいたのでメディアに出来るだけ露出する事が必要であるし,この米国人コラムニストには東京の社交界では何十年に一回という元王家のプリンセスという取材対象に巡り会ったのである。この2人をまるで田舎芝居の様だと皮肉る人達もいた。ある時,外国特派員クラブのトイレでミカエラに出会ったら,「ヨ?コ,新しい私の名刺が刷り上がったので,最初に貴女にあげる」と絵葉書ぐらいのサイズの名刺をくれた。そこには“Archdutches Princes Michaera Hapsburg of Austria”(ハプスブルグ王家大皇女ミカエラ)と葉書一杯に大文字で印刷してある,おまけにピンクや紫の縁取りまでしてある。ハプスブルグと云えば誰でも,旧王家と分るので,”Michaela Hapsburug”と書いただけの小さな名刺が奥ゆかしい。そこで私はその下品な名詞を皮肉る事にした。「ミカエラ新しいレストランでもオープンしたの? 店の地図はこの名詞の裏に書いてあるの?」と名詞の裏をひっくり返して見た。彼女は悪びれず笑っていた。(でも新しいラブホテル?と聞かなくて良かった。横?横道路でクイ?ン・エリザベス2世,QE2と船の形をしたラブホテルを見た事がある)。私はそれ以来彼女と会う度に「貴女のプリンセス・ビジネスは上手く云っているの?」と皮肉った,すると彼女は「Fine!」上手く行っているわ!と臆せず答えた,ここが生まれの良さなのかもしれない。私の米国人の同僚女性記者は彼女について”Big fish in a small pond”(東京という小さなお池で,自分を大きな魚と勘違いしている)と皮肉っていた。しばらくして彼女はBig Apple (ニューヨーク)に居を移した。それから,久しぶりにミカエラらしいエピソードをニューズウイークの「世界の王家の末裔達は今!」という記事で見つけた。ある時NYの大きなパーティでミカエラと双児の妹ソフィア(2卵生らしく,妹の性格は正反対,金髪の美しい女性であるが,大学で考古学を勉強する学究派)が出かけた。入口の芳名簿に妹は小さくソフィア・ハプスブルグと署名したが,姉は1ページ全部を使い,「オーストリア,ハプスブルグ王家大皇女,プリンセス・ミカエラ」とデカデカと署名した。その後到着した,オーストリアの駐米大使が恥ずかしそうに,ミカエラのサインしたページを破り捨てたと云う記事であった。ハプスブルグ家には双児の下にもう1人プリンセスがいる,彼女を見るとヨーロッパ人は必ず「Hapsburg Jaw」(ハプスブルグ家の顎)と感嘆の声をあげる。彼女達の曾祖父のフランツ・ヨーゼフ大帝,ハプスブルグ最後の皇帝(1830-1916年)は巨大な顎を持っていて,辞書にもHapsburg Jawと出ている。このプリンセスに引き継がれていると云う。 ミカエラはその後メキシコの石油王と結婚したと聞いた,現在石油高が叫ばれてるおり,彼女は賢明な決断をした。  

      (終)


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