ジャーナリストのパソコンノートブック
(30)ホモセクシャル・コネクション

   私は自分ではホモセクシャルの人達に寛容な人だと思っている。1970年代前は米国でも同性愛はタブー視されていたので、東洋に流れ着き、東京に溜っていると云う具合であった。しかし彼等は文化的で、文学、芸術にも造詣が深いので話していて面白い。以前目白の田中角栄邸の近くに17部屋もある純日本風の豪邸に住む米国の老大学教授と彼の恋人のハンサムな経営コンサルタントのシャンペン・パーティに招かれた。老教授はギリシャや古代ローマの遺跡を発掘している学者で、数寄屋作りの門から、庭、階段、母屋に至る通路の両側には、巨大なギリシャ彫刻(男性の裸像)が並べられてあった。100人近くのゲストは全てゲイの男性、女性は私1人だけ、しかもストレート。外国でのディナーパーティーは男女対で出席するのが習慣だが、ある御夫婦がこの経営コンサルタントをディナーに招待するのに、英語が話せて、独身の女性と数合わせの為に私を招いたので、彼と顔見知りになった。この経営コンサルタントはすごくハンサムで、「在京外国女性大学卒業者クラブ」の女性達は彼を昼食会に呼び、スピーチを聞いて、うっとりしていた。私が彼は女性には興味がない人だと云うと、彼女達は"What a waste" (なんともったいない事!美しい容姿が無駄になっている) と嘆いた。昼間のガーデン・パーティであるので別に怪しい事は起きなかった。しかし、シャンペンを注いでくれる金髪の美少年は私にシャンペンをほんの一口しかくれない、女性差別だと文句を云い、かぼそい少年からシャンペン・ボトルを奪いとった事を覚えている。
   私は一回だけ"What a waste!"と叫んでしまった事があった。ギリシャのミコノス島で夕日が白い建物、大きな風車等をすべて黄金色に染め、言葉も出ない程美しかった。そこに白い布をまとった古代ギリシャ人のような男達が通りがかった。褐色に日焼けした肌、輝く金髪をなびかせている彼等はギリシャ神話の太陽神アポロの様だと見とれていると、なんと彼等はカップルになっていて、お互いに手を固く握りあっている。私は"What a waste!" と叫んでしまった。ミコノスは世界中からゲイが集まる島だと後で聞いた。
   一つだけ日本の同性愛者に見られない傾向は、米国や英国では実社会でゲイ・ネットワークを使い、圧力をかけたり、悪事を働いたりする事だ。それだけ、ホモの数が多いと云う事かもしれない。ある朝米国ウオール・ストリート・ジャーナルを開けると、一面と次ページ全面にこの新聞社自身の自己批判が掲載されている。この新聞の株のページに過去60年も続いた"Heard on the Street"という、ウオール街の株に関する噂を書いたコラムがあり、このコラムは株価にかなりの影響力を持っていた。このコラムニストはホモのパートナーと同棲していた。そこに目を付けたのがホモ・コネクションを利用した証券マンで、パートナーに金銭を与え、コラムニストにこの証券会社が推奨する株の銘柄を書くようにと頼んでくれと圧力をかけたという事件だった。
   米国の11月中間選挙で、共和党が過半数を取れず、ブッシュ大統領は窮地に追い込まれている。これはイラク戦争の失敗ばかりでなく、マーク・フォーレイ共和党議員が議会で働く若いページ(給仕)に性的関係を結ぶよう圧力をかけたE-mailが発覚した事件で、敗北の原因になったと云われている。
   私は偶然17年前米国政界にホモの男が起した最もスキャンダラスな事件の傍観者となった。彼の名前はクレッグ・スペンス、1973年ABCTVのサイゴンを追放され、フリーの特派員として東京に来た。わざとボストン・アクセントの英語を使い、東部出身を誇示した。ある週末、私は新宿のヒッピーが集まる喫茶店風月堂で、大坂電通の友人を待っていた。中2階から友人が店に入って来るのが見えたので、手を振った、すると友人の隣にクレッグ・スペンスが立っていて、彼は私が手を振ったと勘違いし、「仕事、仕事、僕インタビューしているんだ」と叫んだ。よく観察しているとクレッグは若い日本人の男のテーブルからテーブルに移り話し掛けている。男達は逃げるように席を立っていった。
 当時私を外国特派員クラブの正会員に推す動きがあった。外国特派員クラブは終戦後マッカーサーと一緒に来て、治外法権を享受している年配の記者達、又ベトナム戦争の取材前進基地のような場所で荒くれの戦争記者の溜り場であった。日本人女性も松方ハル(後にライシャワー大使婦人)以来長い間正会員になった人もおらず、女性に対して差別的なところであった。ましてや大学を出たばかりの若い日本女性なんて考えらなかった。クレッグ・スペンスが私を正会員にする事に反対運動を始めた。彼は新宿で若い男を漁っていたのを私に目撃された事をひどく根に持っていたのだ。クレッグはすごく淫らなポルノ小説まがいの手紙をプレスクラブの会員全員に送り、このような淫らな生活をしているヨ?コ・シバタを正会員にするのは反対ですと書いた。しかし、彼は墓穴を掘った。特派員達はクレグが日本に着いたばかりで、私を知るはずがない。こんな淫らな経験はポルノ小説上だけで、日本では起りえない。APやロイターの支局長を中心に私を守ろうとする動きが起きて、正会員になってしまった。クレッグのあの悪意に満ちた手紙のお陰で、私は正会員になれた。彼に感謝しなければならない。
  それから私は東京に開設した英国のフィナンシャル・タイムス(FT)の特派員事務所で記者として雇われた。FTはエコノミスト誌と同系列で、一つの事務所で同じ人間がFTとエコノミストの両方に記事を書く事になっていた。するとクレッグ・スペンスが手の裏を返したように、私におべっかを使うようになった。実はエコノミスト誌の50才ぐらいの特派員Pがゲイであった。ある日私は決定的な場面を目撃した。クレッグ・スペンスが中曽根通産大臣の英語のスピーチを書く事になった。しかし、彼は経済と文章を書く能力がない、エコノミスト記者Pに原稿の代筆を頼み、そのお礼として50万円の封筒を渡すのを目撃した。これは現在の100万円から150万円ぐらいの価値があったと思う。Pはこの額は原稿料として多すぎると辞退したが、結局受け取る事になった。これが大間違いであった。この額は単なる原稿料ではない、彼をさらにのっぴきならない状況に追い込むワナであった。Pはこの後通産省の英文原稿のゴーストライターとなった。この中曽根さんのスピーチ原稿の成功がクレッグ・スペンスのその後の人生を決定付けるものとなった。クレッグは天才的なName Dropper (さり気なく有名人の名前を口にする)であった。自分は中曽根通産大臣のアドバイザーである。また通産省や大企業に対しては、自分は世界一流の経済紙FTと経済誌エコノミストの特派員達に影響力を行使できると豪語した。外国特派員クラブで大企業の広報マンを前に、松下幸之助を電話口に出せ、俺は中曽根通産大臣のアドバイザーだと怒鳴る。日本企業の広報マンは目を丸くして感心していた。頼んでもないのにFTとエコノミスト誌の為に大臣との会見を用意したと電話が突然来る。クレッグが文部省や通産省の仕事欲しさにFTとエコノミストに特派員を自由に動かせると自慢したに違いない。これはクレッグ・スペンスの餌だ、恩を売り付けようとしていると断った。クレッグ・スペンスは日本企業の為に米国政府にロビイスト活動を始めた。自分に箔をつける為に、著名入りの記事をFTに書きたいと圧力を掛けて来た。ある日エコノミスト記者Pはクレッグに日本特集の記事を書かせたいがどうかとおずおずと切り出した。FTの支局長Cは見識のある人で、「一回でもクレッグ・スペンスの様な人に記事を書かせたら、一生FTの特派員であったと云い続け、ビジネスに利用するから」ときっぱり断った。エコノミスト記者Pは「俺の顔が立たない、彼にどう断ったらいいか」とヒステリックに机の上の書類をCに投げ付けた。Pはクレッグが巧妙に掛けたワナにがんじがらめになっていた。後々米国の新聞記事でクレッグは自分が中曽根康宏を首相まで育てた。椎名元雄議員は彼の父親悦三郎氏から教育を頼まれたなど大ボラ(米紙はBraggadocioと云う)を吹いている。しかし、ジャーナリストとしての業績は書いてなかった。もし、ここにフィナンシャル・タイムスの元東京特派員等と紹介されていたら大スキャンダルである、FTの支局長Cの見識の高さに感服した。
  私は何人もの新任の特派員をクレッグ・スペンスの魔の手から守った。ある日新任の若い特派員が新本を5冊抱え昼食から戻って来た、スペンスに無理矢理に貸し付けられたと云う。案の定、数日後スペンスから本の内容に付いてワインを飲みながら話し合おうと電話がきた。波風を立てずにスペンスに本を返すために、二人で協力していかにも読んだというdog-ear (頁の折り込み)を新本に付け、私の手の指を汚して、手あかを所々残す作業をしてから、バイク便で送り返した。これで同僚はスペンスの組合に入らずに済んだ。
  クレッグ・スペンスは人に嫌われる特殊な才能があった。ある日彼がプレスクラブで元CIAと噂されたピンダ?記者の葉巻に文句を付けた。するとピンダ?氏はニヤッと笑って「特派員クラブにようこそ!今まで私が一番嫌われていた会員だったが、貴方が来たお陰で2番目に嫌われる会員になったよ。ありがとう」と礼を云った。1980年特派員クラブで正会員の総会が開かれ、クレッグ・スペンスの追放について討論が行なわれた。古代ローマの陶片追放のようなもので、各々がクレッグの悪事を証言した。若い英国人記者は、クレッグの性的誘いを断った為に、税務署に脱税していると密告されたと云った。採決で彼を追放した。ワシントンに移ったスペンスは日本政府や企業の為のロビイスト活動を始めた。通産省のJETROが主な顧客であった。椎名元雄議員が作った政策研究会に働き7年間で666,774ドルの報酬が支払われている。椎名議員との関係はハッキリしないが、議員は345,000ドルをクレッグの白亜の豪邸の購入に出しており、後にこの資金の返還に付いて裁判沙汰になっている。
  彼を追放してから1年もしない内に、特派員クラブはニューヨークタイムスの大きな記事(1982年1月)に驚かされた。「白亜の豪邸に住む極東から戻ったミステリアスなスペンス氏、彼のパーティには米国政界のお歴々、経済界の大物、新聞、TVの編集長等招かれ、彼のパーティに招かれなかったら、本物のワシントンの人間でない。裏が真紅の黒マントを着て、エドワード王朝時代のスタイルに固執するスペンス氏、人々は彼をフィッツジェラルドの小説『華麗なるギャツビー』の主人公になぞらえる」という内容であった。1980年代は日本の高度成長、バブル時代で、金持ちでお人好しの日本企業からかなりのロビイスト料を稼いだ様だ。ロビイスト活動は主に日本企業の訪米団をホワイト・ハウス内ツアーに案内し、オーバル・ルーム(大統領執務室)で記念撮影をする事であった。
   クレッグ・スペンスの悪事は止む事を知らなかった。白亜豪邸のパーティでは麻薬で客をもてなし、部屋の隠しカメラで議員、政府高官、外国からの賓客の麻薬や売春少年との乱行を盗み撮りして、ブラック・メール(脅かし)に使った。1989年6月29日のワシントン・タイムス紙はスペンスが少年売春組織を操り、政府、軍部の高官、議員にコール・ボーイを送る商売をしていたと暴露した。夜中の一時にホワイトハウス内にデリバリーされたコール・ボーイ2人がFBIに逮捕され、事件が発覚。入り口の警備担当者はスペンスに買収されており、コール・ボーイ達にフリーパスを与えた。スペンスは官邸内に飾ってあった歴史的に貴重な陶器まで盗んでいたと報道している。スペンスは7月31日NYで拳銃所有の容疑で逮捕され、8月2日に保釈された後姿を消した。自宅に踏み込んだFBIは、売春顧客のリストや、盗み撮りの写真を押収した。家に戻れず、高級ホテルを泊まり歩いているところを、記者団に見付かり、ひどく興奮した彼はホテルの備品の安っぽいカミソリの歯を首にかざし、自殺すると騒いだ。8時間に渡る説得で記者達はやっとカミソリを取り上げたという。そのインタビューで彼は自分がエイズに感染していると漏らした。エイズで見苦しく死ぬのは嫌なので、近く自殺すると予告していた。家も財産も全て失った彼は11月6日ボストンの高級ホテルのリッツ・カールトンで服毒自殺した。49才であった。 外国特派員クラブの歴史で最も邪悪な男、クレッグ・スペンス、毒々しい華が散るような最後であった。
  (終) 柴田






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