12月13日、自衛隊が外国人記者10名を硫黄島に連れて行ってくれる事になった。まず入間基地が何処にあるかが分らず、Yahoo Mapで狭山にある事が分かった、間違って横田基地等に行かなくてすんだ。硫黄島の自衛隊には女性は訪れた事がないので、私などが訪れたらまだ塹壕で眠っていると云う第2次大戦の英霊を驚かしてしまうかもしれない。この基地は北朝鮮から攻撃して来るノドンやテポドンの迎撃ミサイルがあるところで、TV、新聞のカメラは全て御法度。一緒に行く外国特派員の中には韓国人記者はいないので安堵した。韓国人記者と云っても、何時北朝鮮の同胞に協力するか分らないからだ。
今年の夏、外国人記者に韓国外務省から、北朝鮮のケソン工業団地、北朝鮮のクムガンサン(金剛山)観光、韓国軍の哨戒艇で済州島(ドクト)訪問の招待があり。韓国ノムヒョン政権の日本に対する揺さぶり、外人記者に済州島の記事を書かせ、韓国領土だと既成事実化する企みがミエミエであった。外務省がこのツアーに応募した40名ぐらいの記者一人一人に行かないように説得したが、かえって反発を招き、報道の自由の抑圧だとか大騒ぎして、結局30名が出かけた。記者達が日本政府はこのように弾圧したと韓国寄りの記事を書く前に、北朝鮮がミサイルを打ち上げ、核実験を行ない、ノムヒヨン政権は北朝鮮にコケにされ、結局は外国人記者にケソン工業団地や金剛山観光をPRさせ、観光代(一人30万円)を北朝鮮にプレゼントする事になった。私だったら工業団地にいかず、30万円使って、ソウルでエステ三昧をするのに。外国人記者達も恥ずかしそうであった。数年前、BBC TVの若い女性記者が北朝鮮の核開発について2時間の番組を製作する為に、訪朝した。番組は最初少しだけ核開発に触れ、残り1時間半は日本軍に占領された当時のインタビューに費やされた。北朝鮮政府役人の云う事をそのまま伝えるだけである。私はさっそくBBCに抗議の手紙をかいた。高額な取材費を使って、北朝鮮のマウス・ピース(Mouth piece, ボクシングのマウス・ピースであるがオウム返しに云う人の事も指す)になるなんてナイーブすぎる。視聴者は現在の北朝鮮の事情を知りたい、60年以上前の事はどうでも良いと書いた。どうも北朝鮮や韓国はこのナイーブなBBCの女性が作った番組の二匹目のドジョウを狙っている様だ。
硫黄島には複雑な思いがある。大戦末期、兵隊が足らず35才になった私の父親にも教育兵として召集令状が来て硫黄島に行くはずであった。父は早大の水泳部で、水泳の早慶戦で慶応の好敵手だった人が軍医になっており、彼が父は結核だとニセの診断書を書いてくれたので、八丈島の軍の病院に送られ、毎日俳句を書いていたと云う。
一昨年静高の三浦先生から、戦争当時の中学生(静高)の手記をまとめた
書物を送って頂いた。静岡大空襲の時の学生の悲惨な体験を淡々と書いている。特に私の実家がある小鹿あたりの話が良く出て来る。三菱重工の工場があり、飛行機の部品製作に静中の学生が全員學徒動員された為だ。大谷側の山陰に隠れていた米軍のスナイパー機に狙われた学生は小鹿の茶畑の間を転げ回って逃げたと云う。「硫黄島」は本土決戦を避ける最後の砦であったが、陥落してしまい、米軍の日本攻撃(B29)の基地となった。 御前崎あたりに上陸して、静岡に爆弾を落とし、東京空爆に向かうコースを当時の人は「B29銀座」(英語ではB29エクスプレス)と呼んだという。三菱の工場が空襲でやられ、製造設備を国鉄の用宗のトンネル内に移してあったので、学生はそこで働いたが、トンネルの外に出るや否や、隠れていた射撃機に追い回されたと云う。
この文集を読んでから、家の裏の日本平に続く茶畑を歩いてみた。近くに対空砲火台の跡がある。三菱重工業は三菱電気として住宅街に残っている。古くからある近所の農家に戦争中の事を聞いてみた。この辺では農家2軒が爆撃され、家族全員11名が死亡したと云う、「ほらあんたらの家が立っているところだよ!」だという。私の父が家をここに建てた時(40年位前)周囲は茶畑で何処が自分の敷地か分らない位であった。芸大の建築に進んだ同級生の清水君に設計してもらった。小鹿川の縁に巨大な樫の木々があるので、それを借景に2階まで吹き抜けの居間を二方向総硝子窓にした。ある時、家の中で仲秋の明月を眺めていたら、弟と母(父の後妻)は火の玉が凄い勢いで木々の間を飛んでいるのを見たという。弟は火の玉と云う存在自体を知らなかったので、きっとUFOだと友達を呼んで来て見ていたという。彼は平凡な高校生で(芸大建築卒)霊魂なんて信じる病的な人ではないが、幽霊も何回も見たと云う。それを云うと父が火のように怒るので、黙っているしかなかったと云った。どうも私達が引っ越して来て、爆弾で亡くなった農家の方の霊魂と無念の気持を起してしまったらしい、と云っても、その話を弟から聞いたのはつい3年前の事である。私の父(当時60才くらい)はクレージーな芸術家であったので、大きな映画用のスクリーンに自分のアブストラクトな写真をパッパと映し、ピンクフロイドの音楽をかけて、当時教えていた女子短大の女の子達とディスコ・パーティーを朝までやっていたから(来たばかりの後妻は体重が10キロ減ったという)、さまよえる霊魂も勝手が違うと引っ込んでしまったらしい。
硫黄島に行く前にクリント・イ?ストウッドの映画 「父親達の硫黄島」と「硫黄島からの手紙」を観てからにしようか、帰って来てからにしようか、迷っている。どちらにしても、気が重くなるのは確かである。
(終) 柴田
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