ジャーナリストのパソコンノートブック |
(20)検閲と弾圧下に生きた特派員達 |
ビル・メンテナンス 2006年4月号 |
最近上海にある日本総領事館員が中国の女性関係で公安に脅かされ自殺したという1年前の事件が報道され、中国当局と論争になっている。あちらこちらの関連記事を読みあさると、中国公安当局が上海の高級クラブの女性を使って、色仕掛けで捉え、中国情報機関にスパイを強要したらしい、それを苦にして自殺したと分かった。これは情報機関がスパイをリクルートする最もクラッシックなやり方でハネートラップと呼ばれる。以前英国のオブザーバー紙のモスクワ特派員になった本人から直接聞いた話しだが、彼が冷戦時代モスクワのアパートで就寝中、ドアが静かに開けられ、女性が忍び込んで来た。この女性は彼のベッドに滑り込んだ。彼は寝ているふりをしていたが、彼女に続いて入って来たカメラマンがフラッシュライトをたき、上半身裸の彼女と一緒に寝ている写真を撮られた。もちろんこれはKGBの仕業だが、KGBは決定的なミスを犯した。「ナタ?シャと一緒に寝ている僕の写真を使ってブラックメールしようとしたって、新聞社も英国外務省も誰も信じない。この僕をだよ!」と自嘲気味に話していた。この特派員は英国上流階級の英語を話し、有名パブリックスクール、オックスフォード大学卒業、細身で、ルックスの良い中年男性であったがホモセクシュアルであり、皆がそれを知っていた。彼のソ連分析記事は素晴らしく、西側ではソ連通で知られていた。KGBは彼をスパイにリクルートする為に写真をとったのではないかと語っていた。当時の在モスクワ特派員は朝アパートを出る時から帰宅まで時間が当局に報告され、事務所から出かける時は秘書が当局に時間と行き先を報告していたと言う。 以前外務省のパーティで当時ソ連の通信社の支局長を紹介された。私はロシア文学部卒で、片言のロシア語は話せるが、それ以上深く話せない, ばれるのが恐くて、そぐその場をはなれた。その翌日ソ連の通信社の支局長から事務所に流暢な日本語で電話が掛かってきて、あすの晩会いませんかという誘いであった。私はかなりドギマギした。当時外国特派員協会の若い会員の中には自分はKGBからソ連のスパイにならないかとアプローチがあったとか得意になって話す者がおり、暗に自分にはそれだけの価値があると匂わしていた。「どうして私なんかをリクルートしようとするのかしら、私は何もKGBに協力する情報も、ツテも、力量もない。私には東洋のマタハリは無理だ」と思った。私は電話を掛け直し「2-3日の内に夏休みで英国に行く予定なので、準備に忙しく、会う事は出来ない、1ヶ月後に東京に戻っているからその時に」と伝えた。するとそのロシア人は「1ヶ月後じゃ困る。休暇中の僕の奥さんがモスクワから戻って来てしまうじゃないか」といった。当時ロシア大使館、ロシアの通信社、新聞特派員は夫婦共に休暇をとる事が許されなかった。夫婦のどちらかが亡命した時、片方を人質として捉えておく事が出来るからだ。初めから断る気でいたが、スパイへの誘いだったら自尊心が少しはくすぐられたかもしれないが、奥さんが休暇中に浮気しようとする誘いに私の自尊心はえらく傷付いた、セクハラだ!と電話を切った。 1970年代から1980年代までは、東京の外国特派員協会にはCIA, KGB を含め、かなりの数のスパイが暗躍していたのではないかと思われる。当時東京特派員は韓国も取材の守備範囲に入っていたので、定期的に、又大統領の暗殺、暴動などの緊急時に取材に行かなければならなかった。韓国での取材は検閲、ジャーナリストへの弾圧との闘いの歴史であった。まずビザの申請で韓国大使館のプレス担当者に取材の主旨をネチネチ尋ねられる。気に入らない特派員はビザの発行が遅れた。さらにKCIAに連絡され、尾行される。ソウルでは指定された朝鮮ホテルに宿泊しなくてはならない、壁に隠しマイクが仕込んであるからだ。70年代後半に私のボスが初めて韓国に行き、取材をして回ったが、手に入れた経済指数、生産高、売上高、ありとあらゆる数字が日本よりはるかに大きい。これなら東京で集めた情報で記事を書いた方が正確だと語っていたのを思い出す。そして1979年10月6日に朴正羆大統領が暗殺された時、東京特派員達がソウルにわんさと押し掛けたが、当局のあからさまな妨害にあった。ワシントン・ポスト紙の特派員は夜8時に記事を仕上げ、ホテルのテレックス・オペレーターに送ってくれと記事を手渡した。朝2時半になっても記事が届いていないと本社から電話があった。なんとテレックス・オペレターが記事を読みながらロビーをウロウロしていたと云う。締め切りの時間まで記事を送らないようにと命令されていた。ロスアンジェルス・タイムスの特派員は国際電話で記事を読み上げ、本社のデスクで録音してもらおうとしたら、国際電話が途中で何度も切られるなどの妨害があった。大統領暗殺を正式発表したが、非常に短いもので、日本のTV局は1分の録画が、検閲で20秒に縮められたという。同年3月に在京の韓国人の池カメラマンがスェーデンの女性記者たちと濟州島の海女の取材に出かけ、釜山空港で彼だけが拘束され、裁判で北朝鮮のスパイとされ7年収監された。東京の外国特派員協会の会長まで韓国に出かけ釈放運動をしたが無駄であった。翌年1980年5月光州事件の時はジャーナリストに対する妨害はもっとひどかった、ソウルから光州への電話は切られていた。光州への交通手段もなし。政府は光州だけの局地化した暴動に留めようとしていた。東京から駆け付けた特派員の中には自転車を借りて、近隣の町までいき、そこの公衆電話から光州の人々に取材をしたという。戒厳令下、軍隊が出動して260人の光州市民を殺して暴動は収まった。光州に入った特派員の中には窓の隙間から覗いただけで兵士に狙撃され、APのカメラマンは写真を撮ったと云う理由で逮捕された。その後尋問された特派員達から、KCIAがホテルの壁の隠しマイクで録音するテープレコーダーはたった2台しかない事が分かった。 特派員の中には、壁に向かって「僕は今、録音機1号に向かっているのかしら、それとも録音機2号?」と怒鳴るツワモノものまで出てきた。ある時フィナンシャル・タイムスの若い在京特派員が韓国を訪れ「ブル?マーク・ジョーク」という巷に流布している噂を政治記事の中に引用してしまった。それ以前大統領の暗殺が続いたので、青瓦台では大統領夫妻が毎朝、お互いにほっぺたをつねりあい、まだ生きていると確かめたので、青痣(ブルーマーク)が出来てしまったと云うジョークである。これが誇り高い韓国政府の逆鱗に触れた。翌日韓国の駐英大使が一面の広告を出し、この記事に抗議した。フィナンシャル・タイムスのような経済新聞は10頁位の日本特集とか、韓国特集とかを発行し、何十社もの掲載広告が大きな収入源である。広告担当者が数カ月前から韓国の大手企業を回り、40社近くの広告をとっていた。そしてベテランの東京の特派員が韓国に行き取材を始めたところ、外務省から取材は全てキャンセル、「信じないなら、広告を約束した企業に電話してみろ」と云われた。取材も広告も役人の一声で一斉にキャンセルされた。数年間韓国特集なしが続いたが、東京の韓国大使館の方から、和解の申し込みがあった。フィナンシャル・タイムスのような経済専門紙から韓国経済活動記事が何年も報道されなかったら、不利益を被るのは韓国の方である。それ以来、韓国に取材に行く特派員は必ず編集長から「ノー・ブルーマーク ジョーク」と念を押された。1980年代の後半まで、韓国で契約特派員を使っていた。この特派員がその日送る記事の報告を東京に電話してきたが、国際電話はいつも盗聴されていた。お陰で、電話が盗聴されているかどうかの区別がつくようになった。ある日、韓国から子供の泣き声でママが警察に連れて行かれたと電話が入った。連行された契約特派員は米国のシティバンクの支店長夫人だ。シティバンクは韓国で最大の資金供給銀行であるので、即釈放された。 私は東南アジアを旅行する時、絶対自分がジャーナリストと身分を明かさない様にしている。以前インドネシアで自分の職業を語った為に、観光旅行なのに尾行されひどく不快な思いをしたからだ。後で分かったことだがインドネシアでは東チモール、イリアンジャヤ、西パプアニューギニア、アチェなどでの民族独立運動で何万人にもの人々が虐殺されており、外国のメディアに知られる事にひどく神経質になっていた。ジャーナリスト弾圧の記録は(1986)年の映画「Years of living dangerously (危険に生きた(幾)年月)」に描かれている。メル・ギブソン扮する新米の記者がインドネシアに特派員として赴任する。中国人のハーフのカメラマンの助けを借り、熱血リポータとなる。政治的危機、クーデターなどを様々な危機に直面する。恋人役にシガニ?・ウイ?バーが外交官役で出ている。特派員達に聞くとアジアで言論の弾圧を感じる国は意外にもリ?カンユー首相時代のシンガポールで(あった)と言っていた。特派員達によるとシンガポールは英国の作家ジョージ・オーウエルが1945年に書いた未来小説「1984年」の「個人が(ビッグ・ブラザー)に完全に管理された近未来社会」を彷佛させる国だと言う。当時シンガポールに長く勤務した英国の銀行支店長の奥さんでさえ、東京に来て1年にも経つのに、小声で話し、誰かに聴かれないか辺りをきょろきょろするクセが治らなかった。シンガポールでは英国人であろうと密告されたからだという。 今日インターネットが広く使われているが、これらアジアの国々ではインターネットが検閲されているかどうか知りたい。 (終) |
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