ジャーナリストのパソコンノートブック |
(16)メモワール |
ビルメンテナンス 2005年12月号 |
私は若い頃米国のABC放送で働いたという仕事の関係から海外の有名人との出会いが多かった。最初はフォーク.ソング全盛時、「花はどこに行った」の歌で有名なピーター&マリーのマリーで来日する度に彼女の大好きな日本酒を飲みに出かけた。ライザ・ミネリとコンサートの後少人数で六本木のクラブに出かけたが、舞台と全く同じシルクハット、燕尾服、網タイツ、ステッキの衣装で、黒人のバックダンサーと一緒に「シカゴ」など数曲を唱い、タップダンスを踊ってくれた。たった十数人の観客の前で、超贅沢なショウであった。今でも曲を耳にする度に冷や汗が出るのはレイ・チャールスである。彼が黒いサングラスをかけた黒人のリズム§ブルースの歌手である事も、曲も知っていた。彼の歓迎パーティで、スローな曲になったら年配の黒人女性がやってきて、レイと踊ってやって下さいと頼んできた。私は彼の動きがスローなのは歳をとっているからだと思った。するとレイは私の顔の輪郭、鼻や唇を手で探り始めた。「You should be beautiful girl」(君は美しい女性に違いない)と云う。私は恥ずかしいことに彼の目が不自由だとは知らなかった。「I am not beautiful. You need new eye-glasses」(私を美人と云うなんて、貴男新しい眼鏡が必要ね!) このneed eye-glassesは「目が悪いのではないの?」と云う意味に使われる。女の子同士で、あの男がイケメンだ等と噂をしていると外人のボスが出てきて、「どこがイケメンだ!You need eye-glasses!」と云われる。とにかく 目の不自由な方にとんでもない事を云ってしまった。思い出すだけで、冷や汗が出る。 またある時、少年マガジンだったか、少年ジャンプだったかどちらから依頼が来て、米国の有名な"Mad Magazine"誌の漫画家御一行が日本の雑誌社に招かれ訪日する、「彼らに我社の雑誌に漫画を投稿するように」と頼まれた。空港に迎えに行き、そこで招待した雑誌社には悪いが、彼らをさらって日光に連れて行く約束を取り付けた。翌朝浅草を出る時、日本酒の一升瓶を用意したが、10人では日光に着くまでに空になってしまい、1日の大半を金谷ホテルのバーで日本酒の続きを飲む事になり、雑誌社のカメラマンはひどく不満げであった。彼らにはラテン系が多く、すごく陽気であった。セルジオ・アラゴネスというカイザー髭の漫画家に惚れられた。彼は食堂の紙ナプキンに僕は貴女が好きだと云う漫画を書き告白してきた。夕食後皆で赤坂を散策していると、彼はギターもないのに私の前に膝付き「ルナ・ロッサ」(蒼い月)を唱い始めた。赤坂一木通り津々浦々に響き渡る声量と余りのロマンティックさに足がすくんでしまう程であった。ロミオとジュリエットの時代からラテン系の国では、好きな女性のベランダの下でこのようなロマンティックな歌で女性の感情を揺さぶったのであろう。私は西洋文化が通じない東洋の不粋な女性を演じて逃げるしかないと、当時流行っていたブルース・リーの「アチョー」と奇声を発し、カンフーのポーズをとり、皆を残し消え去った。しばらくして、Mad Magazineに日本を主題にしたマンガが出始めた。アラゴネスのマンガに「空手をするYoko」と云う題で、空手着の私が「AA Choon-!」と叫んで、構える絵が描かれていた、やられた!と云う感じであった。 別の本では「日光の華厳の滝でシャワーするYoko」と脇の下に石鹸の泡を立て気持ち良さそうに滝の下にいる日本女性が描いてあった。失敗だったのは天婦羅家で彼らの名前を漢字に当てはめたり、私の「瓔子」という名前を漢字で教えたら、難しい漢字なのに覚えられてしまい、雑誌にはYokoではなく、漢字の「瓔子」が書かれていた。 東京サミット会議にロンドンから取材に来た友人の記者と夕食後、六本木のクラブに行ってみると、英国のロック歌手ロッド・スチュワートが来ていた。セクシーなしゃがれ声で、豹柄のパンツの腰をふりながら「紳士は金髪がお好き」とか、「アイ・アム・セーリング」などを唱うロック歌手である。数人の金髪のモデルが彼に絡み付いて、レコードジャケットそのものの光景だった。そこで私と友人は彼をからかう事に決めた。踊るふりをしながら、フロアーで腰をひねって踊っているロッド・スチュワートに近付き、「ロンドンから来たジャーナリストですが」と自己紹介すると、ロッドは"あの手のゴシップ紙記者か"と酔っぱらってトロンとした馬鹿顔で我々を見た。彼は英国の低俗な新聞の常連であった。そこで友人は、自分はフィナンシャル・タイムスの記者と云い、すかさず"By the way、how do you think today's Yen sterling-pound exchange rate? Don't you think Yen is undervalued?" (ところで、円と英国のポンド通貨の今日の為替レートに付いてどう思いますか?円は過小評価されていると思いませんか?)と質問した。ロッドはこのような質問を想定しておらず、まるで鳩が豆鉄砲を食らったように目をして、声もでなかった。我々はからかいが余りに上手くいったので一晩中笑いこけた。 一番印象に残った人物はヘビー級ボクシング世界チャンピオンのモハメッド・アリ(カシアス・クレイ)であった。東京でマック・フォスターとの試合準備で1ヶ月滞在していた。週刊誌に頼まれてアリのインタビューをした。質問はセックスとか、ホモはどう思うかなどばかりで、アリはこんなに若いお嬢さんの前で、セックスなどの話題は失礼だと「僕が小さな時、近所の教会の尼さんたちが……」と何度聞いても、話をずらしてしまう。仕方がないので男性記者がお酒を飲みながら、彼のインタビューをすると云う事になったが、彼はブラック・モスレムズ(黒い回教徒)という黒人過激団体の信者になり、名前もモハメッド.アリと変えたばかりであった。回教は飲酒を禁じている。インタビューが上手く行かないのを気の毒に思ったのか、アリが「もし良かったら、試合の日まで1ヶ月ここで広報、渉外の仕事をしないか」と誘ってくれた。雑誌の人達には「若い娘があんな野獣のような人達に交じって、取って食われちゃうぞ」と大反対されたが、興味深々、冒険心の強い私は、ホテルオークラの10階を全て借り切ったモハメッド・アリ事務所に詰めることにした。当時の写真をみると、呼び屋として有名な康芳夫、ロッキー青木(NYベニハナレストラン)など一癖も二癖もある人達、ボクサーのトレーナーとして有名なアンジェロ・ダンディなどがいた。アリは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と数々の名言を残しているが、彼の傲慢な態度、悪言雑言は試合と云う商売の為の演出で、普段は知的で寡黙な人間であった。当時彼は徴兵拒否で禁固5年を言い渡され、1年半で出獄したばかりで、世界中のメディアの関心を集めていた。だから、メディア対策の広報の仕事と思っていた。しかし渉外担当の本当の意味が分かったのはアリを利用しようと集まって来る人達の交通整理をすることであった。特に銀座のNo.1のホステスと赤坂のNo.1ホステスが競い合って、アリとの浮き名を流そうと必死であった。アリが部屋を出ようとすると、廊下で待っていたホステスが、アリの腕にぶらさがり、大声で「私、たった今アリの部屋から出てきたの、誰かカメラマンいないの?」と大声で叫ぶ。私に向かって「あんた、週刊誌の人でしょ!私とアリの情事を書いてよ!」と怒鳴る。彼女達はアリにアッピールしようとインドのサリーを身に付け、額に赤い星のようなものを描いているが、お門違いである。インドはヒンズー教であり、アリは回教徒である。化粧室でお互いにコンパクトを覗きながら「あんたの香水は野暮臭い、外人には受けないわよ!」「なによ!」と取っ組み合いの喧嘩となった。アリがどうして彼女達は喧嘩をするのだと聞いてきた、すると赤坂のホステスが世界的な有名人と一回でも良いから関係を持つと、ホステスとしての格が上がり」、給料もあがると云うので、通訳してあげた。アリは「僕は婚約者がいるから困る、彼なら独身で大金持ちだからどうか?」と30才ぐらいの白人男性を指差す。後でこの男性はテキサスの石油王の御曹子で、当時世界で唯一の屋根のついた野球場アストロドームを建てた男だと分かった。モハメッド・アリの次の試合をアストロドームで計画していた。彼はこの後すぐヒューストンの市長になっている。9月のハリケーン・カトリーナでニューオルリンズから1万人ぐらいが避難したのがアストロドームである。 私は興味だけでそこに詰めていて、アリを利用しようという野心もないので、信頼され色々な所に連れていかれた。ある日宝塚劇場に招かれ、ショーを見たが、アリは女性が男役を演じ、ラブシーンもあるなんて、冷や汗が背中を流れる、気持ち悪いと5分も持たなかった。米国のショウビジネスの裏を見たと思ったのがアリのTVCM出演料の取り分に関しての会議だった。敏腕のユダヤ系弁護士、ブラック・マフィアと思われるボルサリーノハットの黒人達、本当にどこから沸いて来たのかと思うぐらい人達が有楽町のロッキー青木のべニハナレストランに集まり、俺は10%貰う、俺は20%欲しいと口論している、ある黒人がベニハナの有名な長い刀のような包庁を突き刺した時は殺人事件が起きるのではとドキドキした。アリだけは他人事のように静かにしていた。食事はトレーナーに管理されていたので、夕食後アリとロッキー青木と3人で六本木や赤坂のクラブに出かけた。しかし、ホステスのいるバーは避けた。ディスコに行っても、踊る訳でも、アルコールを飲む訳でもない、3人で会話を楽しむだけであった。当時一番流行っていた赤坂のディスコ、ムゲンに行くと入り口の黒服が黒人は駄目だと云う。人種偏見だと"ムッ"として気色ばんだ私を止めたのはアリのほうで、彼は自分が誰か明かさなかった。入場して連れて行かれたのが一番下の階のトイレの隣の末席であった。しばらくして店側が気付き、DJが本日は特別ゲストとしてモハメッド・アリがいらしていますとアナウンスを始めた、そしてマネジャーがもみ手をしながら最上階のVIP席に案内しますとやってきたが、アリはこの偽善者め!という顔をしてVIP席に移ろうとしなかった。アリは子供の頃から、人種偏見やこのような偽善をさんざん経験してきたであろうが、日本で起きるのが残念だ。しかし3人の楽しい会話は30分も持たなかった、どこから情報が漏れるのか、ホステス達が大挙してやってくる。仕方がないので、アリはもう就寝の時間だと、ホテルに戻リ、皆をまく、そして30分後に待ち合わせていた地下駐車場から再び夜の街に出かけた。このようなパッターンが毎晩続いた。数年後にカナダから貿易関係の大臣が来日した時、通訳として、夕食、さらにコパカバーナというキャバレーにまで同席した。ふとモハメッド・アリに付きまとったホステスを思い出し、指名してみたら、なんと彼女はまだ働いていた。自分がアリの東京妻だと数頁に渡って書かれている週刊誌を嬉々として見せた、あわれで寂しく感じた。 さらに、入れ墨師が表れた、着流しで丸坊主の巨漢の弟子二人を連れてきた。唐獅子牡丹の入れ墨を手で刺した肌色の子牛皮でモハメッド.アリのリングガウンを是非作らせてくれという。この入れ墨師は凡天太郎という漫画家でプレーボーイ誌にマンガの連載をしていた。彼の入れ墨はシャドウ(陰)を入れるのでより立体的に見え、リングで見栄えすると云う。ついでに私の服も作ってと頼んだらサファリジャケットとショートパンツをプレゼントしてくれた。この入れ墨コスチュームはかなりリアルであった。国画会と云う公募展の写真の審査をしに上京した父と上野公園の美術館に向かっていると、後ろから「姐さん!」とヤクザと思われる男に呼び止められた。「姐さん、どこでその服を手に入れやすったんで?」とうらやましそうに私の入れ墨スーツを見る。父から「恥ずかしい、お願いだから、離れて歩いてくれ」と云われ、それ以来着ていない。(柴田隆二 ryuujishibatakeireki.html) (終) |