ジャーナリストのパソコンノートブック
(14)日本はCIAの仮想敵国であった
ビルメンテナンス 2005年10月号

  先日1991年に東京を離れたドイツ人に偶然銀座で出くわした。夏休みで遊びに来ていると云う。どうして彼が帰国したのが1991年と覚えているかと云うとその突拍子もない出国理由であった。1991年夏私は葉山沖でウインドサーフィンをしていた。すると私の葉山の家の隣人のドイツ人が帰国するのでと挨拶にやってきた。お互いに帆を倒してボードに腰掛け波にゆられながら話をした。彼の再婚相手がドイツ大使館員で、米国CIAが日本の1980年代後期の経済的脅威への対抗策を書いた「Japan 2000」(1991年2月発表)を手に入れた。CIAによって日本が冷戦後の「仮想敵国」に仕立て上げられており、この報告書があまりにも悪意に満ちているので、湾岸戦争時のイラクの様に米国のスカッド・ミサイルが打込まれるのではないかと思い、日本を離れる決心したと云う。「ヨーコ、大変な事が起きるよ!」とひどく心配していた。このCIAの報告書は東京の外交官の間でも出回っており、かなり話題になっていた。
  米国CIAが1991年2月に発表した「Japan 2000」というリポートは1980年代後半の日本の経済的脅威を誇張し、日本株式会社が2000年までに世界征服しようと云う陰謀を抱いていると警鐘を鳴らした報告書である。実際日本はバブル崩壊後「失われた10年」と大不況を経験し、このリポートがいかに滑稽なものであったか分かる。しかしCIAはイラクが大量破壊兵器、 核兵器開発という報告書をでっち上げ、証拠も見付からない内に、米・英が2003年イラク攻撃に踏み切り、今日の泥沼に至っているのを見て背筋が寒くなる思いをする。[Japan 2000]に於けるCIAのでっち上げの報告、米国にとって脅威の喧伝の仕方、世論操作、愛国心の高揚、予防攻撃の大儀名分の作り方など、米国の2003年イラク攻撃にそっくり踏襲されている。もちろん2003年の米国の場合、2001年9月11日の同時多発テロ事件で国を挙げての国民の支持があった。私は90年代初頭英国と米国の金融誌の特派員をしていて、CIAがいかに日本を仮想敵国にでっちあげ、撃たれる前に撃つという予防攻撃の大義名分を作ろうとするかを目の当たりにして、この時期の出来事を書き残す必要があると思った。
  CIAは1989年のベルリンの壁崩壊で終結した冷戦後、共産主義に代わる新たな標的が必要であった。日本を「仮想的国」に仕立て、CIA自身の生き残りを掛けようと必死になっていた。興味深いのはCIAが「Japan 2000」で初めて経済諜報活動に方向転換した事である。このCIA報告書では日本人は道徳主義、人権意識に欠け、集団行動が巧みで、国益の為なら何でもする。日本は経済支配への陰謀を企んでいる。10年後の2000年頃には米国経済は危機的状況に陥り、それに代わって日本が世界経済の支配権を握るようになる。日本は将来その強大な経済力を使って軍事大国になり、米国の敵になるかもしれないと云うものであった。米国は自由、人権、平等、民主主義の価値観を世界に広め、英国、仏、独など共通した普遍的価値観を持っているが、これが個人を無視した日本の集団主義によって経済的攻撃を受けていると云った内容であった。
   CIAの経済諜報活動は実にお粗末である。米国の経済の失敗を日本の経済的陰謀のせいだと必死になってでっち上げようと腐心している最中の1991年にソ連邦が解体したのであるが、CIAはそんな世界史に残る大経済事件を予想すら出来なかったという大失態を演じた。
  「日本人が個人を犠牲にして、集団主義で真面目に働き過ぎる」だけでは、日本経済の脅威を煽り、米国人の不安、愛国心を盛り上げるには不十分であった。CIAは日本を攻撃する大儀名分を作ろうとあらゆる手段を使っている。CIA調査報告が不正確でも、荒唐無稽でも構わない。日本の陰謀とか、世界制覇の野望とか、日本を悪役に仕立てようと云うCIAのパラノイア(妄想)に近い筋書きに添うものなら何でもやり玉にあげ、米国メディアを上手く操縦して日本の脅威を煽りたてていた。例えば、ソニーが米国の映画会社を買収したとき、ニューズ・ウイークのアジア版は「ソニーがハリウッドの映画会社買収」とありのままの見出しに対して、米国版では表紙に「Sony invades Hollywood」となっており、この"invade"(侵攻)と云う表現は「真珠湾攻撃」と同じようなインパクトがあり、米国人を不安にさせる表現で米国の学者の間でも話題になったという。また、大和銀行の米国債不正取引や住友商事の銅地金不正取引など、海外での不祥事が必要以上に大袈裟に報道させて、日本企業が米国で不正取引をやりたい放題していると云う印象を与えようとしていた。
   当時金融経済関係のある在京外国特派員の書いた日本経済脅威論がニューヨーク・タイムスで5週間連続ベストセラーリストに載った。この本は日本が1ドル1円の超円高を起こし、世界の資産を買い占め、2000年までに世界一の軍事大国になると云う荒唐無稽の内容であった、東京の外国特派員協会ではこの本は間違いだらけ、事実に基づいていないと批判が憤出した。しかし、当時日本の経済の脅威を大袈裟に書き立てた東京特派員や米国証券会社の在京エコノミストが米国議会の不公正貿易の公聴会にまで招かれ、日本企業の競争力に付いて証言している。ついにはCIAに煽られた米国の議員達が日本車をハンマーで叩き壊しているTVニュースが流された。
   時を同じくして、明らかにCIA報告書が丸写しのような小説「ライジング・サン」が「ジュラシック・パーク」の著者マイケル・クライトンによって書かれ、1992年にベスト・セラーになっており、93年には映画版が公開されている。日本の経済バブル絶頂期の日米経済摩擦ミステリーである。私はこの映画以来刑事役で出演したショーン・コネリーが嫌いになった。この小説はマイケル・クライトン自身が「日本はアメリカのライバルだ、日本人を警戒しろ」と後書きで結んでいるようにCIA報告書そのものである。 CIAの「女、子供を使え」という常套手段は余す事なく使われている。CIAは湾岸戦争でクエートに侵攻する前に13-14才ぐらいのクエートのニ姉妹に攻めてきたイラク兵にひどい事をされたと米議会公聴会で涙ながらに証言させ, 公聴会の模様を全米にTV中継放送させた。TVの中継を見た米国民はクエートを助けろ、イラクを撃てといきり立ち、湾岸戦争の大儀名分がたった。実はこのクエートのニ姉妹は在米外交官の娘であり、クエートには住んでいなかった。もし犠牲者が若い金髪の白人女性なら米国民の愛国心はさらに盛り上がり、敵愾心もさらに高まる。今回のイラク攻撃でも、拘束された若い女性米兵を勇敢な米兵達が建物から救い出すという映画さながらのニュースが流された。この金髪白人女性兵士自身が英雄扱いされるのに閉口して、実は交通事故で怪我をしただけで、イラク兵の拷問は受けておらず、CIAの書いたシナリオに協力しただけと白状した。1992年の小説「ライジング・サン」は冒頭から米国の若い金髪白人女性がロスアンジェルスにある日本企業の高層ビルの竣工式パーティでヤクザにレープ殺人されるという場面から始まっている。小説の方が映画版より趣味が悪くて、日本のビジネスマンが全裸の女性の上に盛った刺身を食べるなど、異常な性的趣味を持った人種として描いている。この時期日本の商社のニューヨーク支社で日本人駐在員が社内でヌードカレンダーを貼っている、卑猥な事を云ったと米国女性社員から商社に対しセクシュアル・ハラスメント裁判をおこされている。この裁判は手回し良く全米中にTV実況中継され、英語のうまく話せない日本人駐在員に発言の場をほとんど与えず、一方的なもので、日本男性が異常性的趣味を持った人種だと最初から決めつけており、日本人に対して嫌悪感を米国人に植え付けようとするCIAの意図を裏で感じた。
   「女、子供を使え!」は古典的な常套手段で、日本が中国を侵略した時、ライフ誌のカメラマンは無表情で線路上を行進して行く日本兵達を背景に、近くにいた中国人の赤ん坊の頭をコツンと叩いて線路に置き、涙一杯にして泣き叫んでいる顔と対比させた写真を撮った。この写真はライフ誌の表紙を飾り、「残酷な日本兵」と云うイメージを世界中に与えた。報道の恐さ、写真の恐さを知った日本外務省が日本版ライフのような写真雑誌を作り、アジア諸国での日本のイメージ回復を計ろうとした時は遅く、戦争の末期に近かった。私の父に編集長の任命が来たが「日本とフィリピン」とか数種の写真誌が出版されただけだと云っていた(この写真誌は戦後アサヒジャーナルとなった)。 米国自身ベトナム戦争で「女、子供」の写真報道で痛い思いをした。ジャーナリスト達に自由に戦場取材させた為に、爆撃を背景に泣きながら裸で逃げる小さな女の子の写真、赤ん坊を抱いて川を逃げる母親などの写真報道により、ベトナム戦争は全くの無実の民間人を殺しているだけと米国人に反戦気運をもたらした。これに懲りて、今度のイラク攻撃では、ジャーナリスト達は最前線の軍隊に組み込まれ、軍と一体化して行動しなくてはならない。イラクの民間人の悲惨さを伝える写真や記事は許されてない。
   さらに1994年には「レッドオクトバーを追え!」などの作家トム・クランシーは経済摩擦から日本がワシントンにミサイルを打込むまでに至る著書「Debt of honor (日米開戦)」を書き、大ベストセラーとしている。クランシーは日本を訪れもせずに書いたらしく、日系二世のCIAのエージェントが日本の大企業の陰謀を探る為、毎晩銭湯(サウナでない)で日本企業の重役達の会話から情報を収集しているし、原子力発電所が横浜の住宅街に隣接しており、そこの警備員は銃装備しているなどあり得ない事ばかりである。
  1980年代経済、金融記事を書いてきた私として納得いかないのが、CIA報告やこの2つの小説が 日本がわざと円高を誘導して、金利を低く押さえて投資資金の流出量を潤沢にして、ロックフェラーセンターなどの米国の資産を買い占めたとかいてある事だ。円高になったのはリーガン政権時代米国の財政と貿易の双児の赤字を減らす為に1986年ニューヨークのプラザホテルでのG5会議で大幅なドル安(円高)にして米国の海外債務(ドル建て借金)の棒引きに協力させられた結果である。この急激なドル安(円高)はひどかった、私が当時フィナンシャル・タイムスから貰っていたドル建ての給料はある日突然円の手取りが半分になった恨みがある。先日、ある会議で榊原英資元大蔵省審議官(現在慶応大学教授)に中国銀行の代表が「現在、中国は米国から人民元の切り上げを迫られているが、榊原さんのプラザ会議での経験から何か中国にアドバイスいただけますか?」と質問した。榊原さんは「絶対米国の圧力に負けてはだめだ。日本はプラザ会議で米国の圧力に屈したお陰で、超円高で(1ドル80円)になり、バブル景気が起きた。急ブレーキでバブルが破裂、失われた10年と云うように長期不況が続いた、本当にひどい目にあった。しかしドイツのブンデスバンク(中央銀行)はプラザ会議で米国に協力する事を頑として拒み、独マルク高にしなかった」と語っていた。
   さらに我慢がならないのはCIA報告とこれらベストセラー小説も、日本が当時金利を低く押さえて、投資資金の流出量を潤沢にした、海外資産の買い占めに走ったとまるで陰謀のような書き方をしている事だ。これは米国の財政赤字の削減に協力する為、日本の生保などの機関投資家の潤沢な資金が米国債に投資し易くする必要があった。米金利が日本より高くなければ、日本の機関投資家は米国債を買わない。日本の金利を米金利より低く押さえ、大蔵省役人は生保に「今日いくら米国債を買いましたか、明日はどのくらい買う予定ですか?」という電話を連日したと云う、この電話の暗に意味するものが大蔵省の「買え」という無言の圧力だと察知しなければならなかったと生保の運用者は当時私の取材に答えていた。超円高、低金利と日本はこれ程まで米国に協力しても感謝されるどころか、CIAの報告書で世界の経済支配への日本の陰謀だと書かれる始末である。日本は為替でも金利でも米国に協力したともっと恩を売るべきであった。日本人は貸しを作るのが下手な国民である。小泉さんのようにブッシュ大統領に忠犬ポチのようにいつも尻尾を振っていると、米国の云う事を聞くのが当たり前だと思われ、bargaining power (交渉力)が失われ、国連の常任理事国入りで米国の援護を得られなかった。北朝鮮核問題での6カ国会議でも日本人拉致問題は米国の支援を得られなかった、もっとしたたかにならなくてはいけない。
   1990年代初頭はCIAにとっても端境期になった時期で、戦後自民党と日米安保などで意志の疎通がとれていたCIAにも世代交代の時期がやってきた事だ。この「Japan 2000」の報告書も日米安保、為替のプラザ合意など日米の歴史に疎い若いCIA要員が功名心に駆られ書いたものと思われる(インターネット上のCIA百科辞典の中でCIAの欠点として、一人とか少人数の主観的意見よって調査報告なり、戦略シナリオが作られ、それに固執すると書いてある)。この報告書の発行される2年前1989末に外国特派員協会の会員アル・ピンダーという77才の米国の特派員が亡くなった。特派員クラブの有志数名が遺産問題など手続きに疎い彼の日本人の奥さんを手助けしようと書類の整理に彼の自宅を訪れた。帰り際デスクの下に隠し引き出しがあるのに気がつき、数冊の異なった名前のパスポートを発見し、CIAであった事が判明した。(ピンダー氏はなんと50年間奥さんにCIAの要員であった事を隠し通した)。彼は戦争前OSS (CIAの前身)で働き、1954年東京の外国特派員クラブに入会している。小柄な男性でいつも葉巻をくわえていた、時計のように正確さで同じ時間にプレスクラブに表れ、ツナのサンドウィッチを食べ、図書室で読書、水曜日だけは姿を表さなかった。眼鏡の奥の眼光は鋭かったが皆に好かれていた。彼がCIAでどのような役職にいたかは分からないが、日本に60名もいるというCIA要員の上層部にいた事は確かである。有志特派員が偽パスポートの件をピンダ-氏への追悼文としてクラブの機関紙上でバラしてしまった。すぐ、米国大使館員と称する男がこの特派員をゴルフに招待して、この件について聞きたいと連絡をとってきた。特派員の奥さんはゴルフボールが頭に当って死んだなんて云う事故が起きないかとひどく心配していた。
  日本にとって不運だったのは1992年11月大統領に就任したビル・クリントンが米国で始めての戦後生まれの大統領で、経済大国ニッポンしか知らない。彼は日米安保体制なんかより、不公正貿易是正など経済問題を重視した。そして日米自動車交渉の日本側の会話を盗聴させるなど、CIAに外国との貿易交渉の支援に新たな役割を与え、経済諜報活動を積極的に支持した。しかし、彼も馬鹿でない、1992年頃から北朝鮮の核兵器開発疑惑が浮上し、北朝鮮の核ミサイル開発や中国・台湾の緊張など東アジアに危機感が強まり始めた。そこでクリントン大統領は極東には揺るぎない日米安保協力があった事を思い出した。かくして日本はCIAの仮想的国と云う標的から外れたのである。1995年ごろであったか、米国のPBS(公共放送)で民放TV局のニュースキャスター数名が座談会を持ち、これまで米国のTV番組がいかに日本に対して不公平で、人種偏見的であったかを自己批判していた。 彼らは不公平なニュースの情報源が政府(CIA)であった事までは認識していない様であった。

                         (終)

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